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喪服日誌

唐揚げだけが人生だ。/@yuki_mofk

2017.03.25

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 今更ですが15日前にまたひとつ歳を取りました。7時に目が覚めて、動画を観ながら布団の中でもぞもぞと芋虫の真似事をしていたら目が冴えるのとうたた寝への誘いの快楽の狭間で揺れて揺れて結局快楽に負けたのだけれど、10時に用事があるのに9時40分に飛び起きる羽目になって慌ててシャワーを浴びた。野菜ジュースを飲んで、車に乗ったら雪がさらさらと降ってきて、こりゃ4月にも雪が降ることだってあり得るなと思った。大学1年生の4月の雪降る明け方に怖い事件があったことはこのブログに書いたっけ、まぁいいや。用事の人とジムに行って変な靴を履いて走ったらふくらはぎを痛めて足を引きずりながらはま寿司で大トロを食べた。おいしかった。おいしかったかな?箸の先で脂身が切れたこと、醤油を垂らすと脂がみるみる溶け出していったこと、舌の上に乗せるとやはり脂の味がしたこと、これをおいしいと判断するのは、大トロ=美味しいという刷り込みの意識から出た感想ではないのか、多分そう。でもどこかの港町でもっと多く大トロが食べられる機会があったら飛びついてしまうと思う。グルメ番組で大げさなリアクションで出てくるような食材には縁遠い生き物だから。用事の人と別れ際、先日入籍をしたという話をもらって、なぜかうまく笑えずに変なリアクションを取ってしまった。それはどういう心境がそうさせたのだろう、と少し考えてしまって、そういや更に一週間前にも別の友人から同じく入籍の話を聞かされたな、その時も似たような感じだったな、と思い出した。多分、籍を入れるという行いが自分の生活の習慣にない、縁遠い、ドラマや小説の中のものであるから、それとしたという人の話を聞いても心からのリアクションが取れないんだと思う。つまり大トロだ。知識としては入籍はめでたいものとして祝福すべきものだと理解しているけれど、自分がその喜びを知らないから、ふわっと表現せざるを得ないのだ。日頃食べ慣れてないから、おいしいものだと頭で理解するが心の底では腑に落ちてないのだ。だから入籍に関しては、僕自身がそうならないと他人に対しても心から祝えない、悲しい生き物なのだなという気付きを得てしまいました、という今回の日記。でも自分がそうなるだろうという案件が目の前にあったら、やはり大トロのように飛びついてしまうのだろうな。節操のない生き物。

雪の鯨の話

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子供のような、大きな瞳の輝きが僕の姿を写した。
春も間近になってきた夜道、仕事を終えて職場を後にした僕は、駐車場にいた。最近は雪が雨に変わり始め、吹く風もどこか太陽のぬくもりを感じる。冬の間に駐車場に積もった雪は除雪車によって片隅に寄せ集められ、冬の間に小さな山を形作る。この山もそんな気候の変化によって日ごとに少しずつ小さくなり、そばの路面を濡らしながらやがては消えていく。例年の光景である。僕はよくこの山が積まれる場所の近くに車を停める習慣があって、今回も当然のようにそこへ車を置いた。置いたのだから、また乗る為に駐車場にきた。リモートキーで解錠する。車のウインカーが点滅する。ドアに手をかける。運転席のガラスに僕が映る。そして、その僕の後ろの雪山も。
大きな瞳が、その雪山のまんなかにあったのだ。
気を抜ききっていた僕は不意をつかれ、「ひっ」と声をあげた。そののち、努めて落ち着こうとした。雪の塊に生き物のような目が?ついているとでも?そんな筈はない。たとえば路面だけでなく土の上を舐めあげた雪なんかは茶色のままで山の一部となるのだから、偶然黒っぽい丸い点が雪の表面についていても何ら不思議ではない。あるいは誰かが何かをそこに置いたまま、忘れて帰ったのかもしれない。ただそれだけだろう。そもそもおかしな見間違いなどよくある話だ、声などあげてしまって恥ずかしい。この駐車場にいるのが僕だけでよかった、明日の職場の話題の的にされる所であった。振り返って見てみよう、それにしても一体何を見間違えたのやらーー
瞳が瞬きをしたので、気休めの思考もそこで終わった。
僕はとうとう腰を抜かした。尻餅をついて、車体に背中を預けてへたり込んだ。瞳は、確かにそこにあった。暗がりでよく見えないだけなのか、あるいはそういうものなのか、真っ黒な、しかし艶のある、生き物の眼球だった。目蓋は雪そのものであり、よく見ると目の周りには横一線に伸びた皺が何本かあった。既視感を覚えて思考が知識の中から近しいイメージを引っ張り出してきて、脳裏に浮かべた。クジラの目だ。覗き込めば吸い込まれそうな、深遠に色があるならばこんな色であろうという、深い黒だった。
「おう、おばんだな」
続けて、声が聞こえてきた。そんな挨拶を投げかける相手が今この場にいないことは分かっている。そもそも職場の鍵を閉めて出てきたのは僕だ。誰もいない。この場において、生き物の目を持った雪山が目の前にあって、僕は今パニックになって声さえ出せないでいる。声の主を僕以外の何かから探そうと思ったら、今目の前にある目玉のついた雪山とするのが、馬鹿馬鹿しいが、道理であると思った。瞳を見上げると、少し目を伏せて、しかしこちらを見つめる黒の点と視線がぶつかった。僕は今、喋る雪山と対面している!誰が聞いても気が触れているとしか思えないだろうが、そんな気の触れた事実が今ここにある。僕は恐る恐る瞳に対して頭を下げた。おばんです、とは、こんばんは、という意味の方言であるが、とてもそんな日常の習慣を未知のものに繰り出せる肝は据わっていなかった。
「おれの声が聞けるのかい」
あぁ、やはり普通は聞こえないものなんだな、これは未知との遭遇なんだな、という実感を理解して、鳥肌が立った。はい、と声を出してみたが随分掠れた音が出た。そんな応対でも満足なのか、瞳は目を細めた。目尻の皺が横に伸びる。笑い皺だ。それからこの雪の鯨は低く、穏やかな声で語り出した。その年の冬の最後に雪が降った日から春分の日頃までの間に彼らは生まれること。彼ら、というだけあって複数いるということ。冬の終わりを告げる存在であること。雪の塊に生まれ、雪が溶けるとまた次の冬までいなくなってしまうということ。
そこまで聞いて、心は落ち着きを取り戻していった。未知の生命体と相対する恐怖心は薄れ、どちらかといえばお地蔵様や大仏と向かい合うような、厳かなものと向き合う気持ちに近い。よくフィクションの世界に出てくる精霊や妖怪に近しいものなのだろう。何故僕が突然あなたの存在を知覚できるようになったのか、霊能力的なものなのか、と問うと、知らん、とぞんざいな返事がきた。一年のうちに、その地方に住むどこかの誰かのうち一人は見えるようになるが、そもそも雪の塊が生きているなどとは思わないのが普通であるから、気づかずに冬が過ぎる場合もあるという。では、と僕は続けた。あなたの存在に意味はあるのか、と。そう言うと鯨はまた笑い皺を伸ばした。
「人間が生き死にするのに理由があるかい、季節が移ろうのにも理由があるかい。もしあるとしたらそれは人間の勝手よ、後付けの理屈よ。我らはただ移ろいゆくものよ」
意味はないという。こんなにも未知で非現実的な存在と相見えたというのに、そこには何の意味もないという。周りにあるあらゆるものの意義や理屈も揺らいでしまうような気がした。彼ほどの大局観からすると、おそらくただの現象としての命であり、季節であるということだろう。
そうこうしているうちに、ぽつり、と雨が降ってきた。夜は相変わらず冷え込みはするが、雪として降るほどの寒さはもう残っていなかった。行きな、と鯨の声が聞こえた。
「意味のねぇもんの話を意味もなく聞いてんのは勿体ねぇと思うがね。まぁ、それでも人間は理由をつけるのが好きだからねぇ」
では何故声をかけたのだろう。少し釈然としなかったが、言われるままに車に乗り込んだ。エンジンをかけた車の内側からもう一度雪山を見る。溶けかけた山の全容は、昔京都の水族館で見た大山椒魚にも似ているな、と思った。去り際に声をかけようとしたが、瞳は雪の中に埋もれて再び見つけることができなかった。この不思議な現象と、また話してみたいと感じた。人間は意味のないものが好きだから。

2017.02.23

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ここ数日寝つきが悪い。肩こりが取れるはずの例の枕は今度は首に負担を与えてくるので結局肩まわりに違和感を感じるし、翌朝の活動開始時間が早いからと早く寝ようとしても寝付けず結局数時間目を閉じて横たわるだけの虚無になる。あの時間のときの自我の存在は虚無そのものとしか言いようがない。何も考えず、ただ睡眠を待つだけの体勢は仮死にも近いなと思った。この前話したようにタブレットで動画を流していても結局内容を全て観終わって寝付けずじまいなので、何か良い方法はないかと考え、Apple musicが提供してきたジャズのプレイリストを流すことにした。結果、なんとか寝れた。ジャズはいい。音楽として広義的であるから素人がある程度ふわっとした話をしても許される節があるし、誰しもが聞いた事がある曲(アートブレーキーのモーニンとかビルエバンスのいつか王子様がとか)もいくつかあるから導入もそんなに難しくないし、あと大体何を聴いても似たような音楽に聞こえるから。ジャズの中にも細分化されたジャンルはあるけど、それも大体ふわっとした認識で把握できる。たとえばスムースジャズはおとなしくて、ビバップはアガるやつ、とか。ジャズ一本でハイテンポにも睡眠の導入にもなり得るのだから懐が深い。海外テレビドラマで出てくるような、大柄の黒人女性から発せられる母性のスパークみたいなものがある。どうでもいいけれど黒人女性のドレッドヘア率はなんなんだ。まぁいい。そういうポイントがあって、僕はジャズが好きだ。単におしゃれな音楽であるなとも思うし、流行りの音楽たちと違っていつ聴いてもおしゃれであり続けて、ダサさや飽きがこないのは素直にすごいと思う。使い込んだ道具のように、しっくりと場や精神に寄り添うもの。人によっては川のせせらぎだったり小鳥の鳴き声だったり、逆にデスメタルだったりするのかもしれないが、僕はジャズが体に合う。父がバンドマンで母がピアニストだからなのかもしれないけれど、両親がセッションしているところをたぶん一度も見たことが無いな。というわけで、そのうち枕も元のクッションに戻します。

作品のタイトルについて

記述

元々僕は芸術に関しての知識や教養がなくて、でもそのくせに美大なんぞに入ってしまった。その時に、今後そういうものに触れる機会が多いのだから、自分なりにいろんな作品に対してのものの良さを判断する秤を持ってないといけないぞ、と考えました。特に絵画などは描写する技術力の他にも描いた人の思想が強く出るものだから、写実画にしても抽象画にしても、何を観た時に心惹かれるか、そのロジックが自分の中でわかってると他人にもその良さを伝えやすいよな、なんて思った。
で、色々と観てみて共通していたのは、「観たものの正体や示唆する意味が果たして何なのかをいくつも心の中で推測できる」こと、「観たキャラクターや風景が心の中で勝手に動き出し、物語が生まれる」ことで、要するに「観た人の数だけ心の中で物語が広がるもの」が良いのだ、という結論に達した。もちろん僕個人の感想である。
それで作品の良し悪しに関わるもう一点大事なことは”タイトル”で、これが見た目で何とか作品の意図するものを掴もうとしている鑑賞者に唯一文字でヒントを与える、大事なメッセージなのである。これの大事さは自分で作ったものを作品として他人に見せるようになって初めて気付く。そしてこれを決める方法は、もちろん作者が何を意図してそれを表現したかを率直に出せばいい訳だが、中には必ず率直に出すことが良いものとは限らない場合がある。例えば、僕が人里離れた密林の中で、朝露に濡れた一輪の真紅の薔薇を撮ったとしよう。前述のように、観た人の心の中で物語を想起させることに良さがあるにも関わらず、タイトルで単純に「薔薇」なんて付けたら、それだけのものでしかなくなる。薔薇の花言葉だったり、深い赤に雫が浮かぶ様子だったり、色の対比や撮り方でもいろんな表現があるのに、見たままのタイトルをつけてしまったら、逆に想像の幅を狭めてしまって、つまらないものに成り下がってしまうのだ。これは写真も絵画も立体物も全部そうで、「いやそんなん見たらわかるわ!」となってしまったら途端に興醒めしてしまう。もちろん、作者自身にそこに込めた深い意味がなかったり(日常的なスナップとか)、むしろそうとしか言えないタイトル、なんてものもあったりするから、必ずしも何でも感覚的に、遠回しに言えば良いというものではない。逆に遠回しにしてばっかりいると、観た人にとっては「作品はそれなりやけどタイトル中二くさ、自己陶酔し過ぎか」となってしまう。等身大過ぎても背伸びをし過ぎてもいけないのである。
人に物語を与えること、逆に相手に自分の心情が作った世界を伝えられること、このどちらかが伴っている作品はとても良いものだし、自分もそれに近付けたら、といつも思っている。そんな話。

2017.02.18

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 仕事が終わった足でそのまま隣の県まで行ってお酒を飲んで、朝方帰ってきてそのまま就寝。昼に起きたら目の前でお笑い芸人がガヤガヤとうるさかった。寝る際に枕元にiPadを立てて何かしらの動画を再生させながら寝るのが習慣で、この癖がせっかく枕を変えてまで良くしようとしている睡眠の質を下げているのはわかっているんだけど、余程疲れている時以外は眠りに就くまでの時間がもったいないから、とケチくさい理由で動画を観ることをやめられないでいる。将来的に誰かと生活を共にして就寝するようになったら辞めないといけない。この前人からもらったお蕎麦を大量に茹でて食べて、カラオケでリズムに乗ったり女性ボーカルの歌を心おきなく歌ったりした。帰り際もう少し時間があったからその足でジムに行こうかと思ったけど翌日のことを考えて自重して、部屋で黙々とLIDをやった。LIDが発売してからというもの、もう毎晩ゲームをやってる。ローグ系のRPGテトリスみたいなもので、暇さえあればコツコツ熱中して取り組みたくなるような、生活の上で習慣になりやすい仕組みであることだなぁ。最近仕事の休憩時間にApple Musicでいい音楽がないか探しながらこうして日記をつけることが新たな習慣になってきそうなんですが、この習慣はいずれ途切れそう。毎日働いてご飯食べてゲームするだけの日々を表現豊かに綴れるほどのポテンシャルはないし、そんな奴は気持ち悪いですよ。最近は朝起きるのつらいなぁ、歌いたいなぁ、運動したいなぁ、痩せたいなぁ、水と酒飲みたいなぁ、が脳内を占めてます。

2017.02.15

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今こうして日記を書いているはてなブログは1年前の同じ日に日記を書いていた場合、振り返りで昨年あったことをメールで教えてくれて、案内どおりに昨年の記録を辿ると寂れたお店で餃子を食べたり転職の面談をしていたり前職の社長に捕まったりしていた。かつての住処であった町に思いを馳せたのと仕事をしながらお酒を飲みたい気持ちが高まってしまったので、明日が休日なのをいいことに19時から職場を飛び出し隣の県まで車を走らせることを決めた。突発的に行動を起こすのは今に始まったことではないけれどいい大人というのは計画性を以ってして淡々と日々を送るものというイメージがあるので、いまだにぼくはそのレールに乗れずにいる。元々〇〇とはこうあるべきだ、という概念に沿って行動している事があるとすれば公共マナーとか人を殺してはだめとかある程度の倫理観ぐらいで、たとえばお酒なんてものはそれぞれがうまいと思った飲み方をしたらいいと思うし、マリオは地道にコインを拾う人と雑に残していく人がいて性格が表われるけどクリアしたらその過程は何でもいいし、大人だっていろいろな大人のイメージがあるけれど、実際なってみたらいろいろどころのパターンでなくて、むしろ学生時代以上の分岐があるから、もう”あるべき姿”というもの自体が虚構なんじゃないかとさえ思えるようになってきて、結局何もわからない。成るべき成果が見えないまま闇雲に生きるのは、仕事に置き換えれば効率の悪いやり方にはなるんだけど、効率のいい生き方なんてものは誰も教えてくれなくて、大志を抱けみたいなふんわりした回答しかしてこなかった大人たちも、きっと明確な形を見つけられなかった中で掴んだ蜘蛛の糸のいくつかを束ねて振りかざしていたのだろう。彼らが生き方を迷ったからではなく、元々誰もが迷うようにできているのだろう。だから、明日の事は明日考えるような日々の暮らしも、数ヶ月先の未来が見えている暮らしも、遠くから見たら大した違いは多分ないし、僕は早く帰ってお酒を飲みたい。

2017.02.13

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短時間でいかに回復効果の高い睡眠が取れるかを色々調べてみたのですが昼寝を挟むことと固い布団で寝ること、寝る一時間前から発光する媒体を見ず部屋を暗くしリラックスすることが重要とのことで、全てを日常に取り入れるのが無理そうだったのでとりあえず肩こりが取れる謎の枕をアマゾンで買った。ある時期から枕を使わずに適度に高さの合うクッションを適当に積み上げて寝ているので、いずれはきちんとした枕が欲しいと思っていた。今回ようやくその時が来た、ということだろう。枕とは魂の蔵が語源だよ、という嘘か本当かわからない話を蟲師で読んだのですが、人間工学に基づいた枕の凹凸に自分の魂が蓄積されていくのかと思うと精神と科学の融合に心が躍るやら踊らないやら。物欲がインターネットで満たせるようになってしまって、最近は何かしら外に出る理由を捻出しないと家から出ようという気持ちが死んでしまうので、今日に関してもなんとかだらけがちな心を叱咤して市のスポーツセンターまで向かってトレーニングルームで1時間ほど重りを持ち上げたりバイクを漕いだりした。人間は汗をかいて何かを為せば成果はどうあれ達成感を得られるようになっていて、心に充実感が足りない時は運動したらいいんだな、というシンプルな気付きを得た。生きる上で自分の脳をいい方向に騙し転がしていくことが健やかな生活を生み出すのかもしれない。今湖池屋の出したプライドポテトという代物をプレモルと共に食べて昼の努力を帳消しにしたとしても、食の喜びは脳に、脳にいいから…。あとゲームの進捗ですがLET IT DIEを19階まで進めました。もう鉈で斬られたくない。