喪服日誌

唐揚げだけが人生だ。/@yuki_mofk

2016.10.17

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衣替えをしようと収納棚の奥に腕を突っ込んでみたら、自分が把握する以上に暖かな衣類が次から次へと湧いて出てきて、1分ほどで衣類の山を築いて途方に暮れたところで衣替えは終わった。秋どころか冬にも近いのだろうか、夜に吐く息は白く霞んだ。吐く息が白くなることは前の日記にも書いたっけな、でもそれを人に伝えたくなるのは、到来する季節のことを喜んでいる自分がどこかにいるからで、もしかしたら前世は霜柱かなにかだったのかもしれない。今は電車に運ばれ、さらに一時間後には夜行バスに運ばれ東京へ至る、そんな道中にこれを書いている。飲み水でも買おうかと立ち寄ったスーパーで、ふと東京で出会う人へお土産を買っていこうと思い立って山形らしい土産物を探した。真っ先に見つけたのは、おしどりミルクケーキだった。おしどりミルクケーキをご存知だろうか。ミルクケーキといえばケーキという名前からして柔らかくふわふわとしたスポンジの食感を想起させがちだが、実際は真逆である。硬く、甘い板状の棒である。おしどりは山形の県鳥であるので、山形土産として名を挙げようという姿勢が見て取れる。テレビCMなどは山形県民なら一度は目にした事があると思うが、2000年代に産まれた子供たちはもしかしたら見た事がないのかもしれない。「山形土産におしどりミルクケーキ」、とCMソングでそのままのことを歌っている。味もミルク味以外にラフランス、さくらんぼといった山形県産ならではのラインナップを加えたりと、とにかくアイムスーベニアの主張が激しい。で、ここまで王道を貫くこの山形土産を買ったかと言えば、それは否だ。なぜか?硬くておいしくないからだ。少なくとも、僕はそう思うからだ。もちろん好んで買う人もいるが、僕自身がそうでないと思うのだからそんなものを人に勧められるだろうか、そんな訳がない。だから別のものを手にしてカバンに詰めた。さて、電車は着いたが、あなたたちの元へはもうちょっとかかりますよ。

2016.10.09

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ここ数日の間で仕事がうまくいかなかったり、体調を崩したり、中旬に実行を企てている旅行の内容を考えたり、阿蘇山が噴火したり、過労で若い人が死んだりした。死んだ人のことについて色々自分の考えを話したがる人たちがインターネットでブツブツ言ってるのをよく見る。どこかから流れてきた情報と状況を並べていくらうだうだ考えても当事者の立場と精神になんて近付けないし、結局似たような境遇に自分が立ったり、身近な人が陥った時に自分が取る行動とその結果が全てなんだと思う。人がつらそうにしてて気にかけることって、そんなに頭使うものかね。配慮とか責任とか色々話すとキリないんだけど、ごちゃごちゃうるせぇなと思う。前職時代、はじめて仕事が深刻につらい思った時に当時の恋人が偶然家に泊まりに来たんだけど、ただそれだけのことが涙が出るほど嬉しかったんです。直接の問題の解決なんて当事者以外の人が出来る方が少ないんだから、助けたいと思ってる人も別に重く考えなきゃいい。LINEとかで一言ポンと話すだけでいいんだから。この話終わり。外気はすっかり冷えていて、夜分に家の外に出たら吐く息が微かに形を纏った。誰かがオリオン座が見えたと言っていた気がする。半袖を仕舞うのはもう少し先にしようかと先月末に考えたけど、やはりもう仕舞い込んでもよさそうだ。扇風機もあと半年お眠りだ。近所の河川敷は芋を煮込む人々で賑わってて、通行人の多い時間帯の京都の鴨川によく似ているなと思った。

2016.10.04

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橙の色をした小さな花が路地に敷き詰められた煉瓦の隙間に溜まっていて、見上げれば金木犀の木がそこにあった。早いもので、もう花を付けた木は少なかった。いつものことだろう、と僕は気に留めていなかったが、世間は台風の上陸と接近にやきもきして騒がしかった。そんなことより季節の到来と経過を知らせる花の散り際とその香りの薄らぎが気になった。当たり前のことだが、いい匂いというのはいいものだ。前に日記に少しだけ書いた香水が今はすっかりお気に入りだ。ジャスミンの花の香りだというが僕はピンと来なくて、ジャスミンのイメージといえばジャスミン茶でしかなかった己の認識の浅さを恥じた。ジャスミンの香りは金木犀と少し似ていて、甘い。これを日々纏えるのはとても良いことだ。何故ならいい匂いというのはいいものだから。今まで香水に興味がなかったのは、今まで気に入った匂いと出会わなかったことと、匂いを纏うことにそれほど価値を見出さなかったからだ。だが考えてほしい。これまでの人生の中で、「いい匂いのする人」は確かにいたはずだ。匂いの正体はいろいろある。香水、柔軟剤、車の芳香剤、お香、家の匂い、そもそもの体臭。体臭といえば、何年か前に食べるだけで体からバラの匂いがするガムというものが販売されていたはずだが、特に匂いの種類の派生もなく市場から消えたのは、単に人気がなかったのか、効果が微妙だったのか。ともあれ、ワンプッシュの霧を体に付着させるだけでいい匂いのする人間になれるということは何ともお手軽に自分の価値を上げる手段であることか、と思う。そして実際にやってみれば、他人に対してよりも自分の為に香りを纏うのだ、ということも分かってくる。リラックス効果があることが明確にわかる。国内外のプロサッカー選手が出場前に香水やコロンをつけて試合の合間にその匂いで心を落ち着かせる、という話がよく理解できる。ともあれ、やり過ぎが良くないのはどの話も一緒。今日は昼前に起きて肉を食べて歌を歌ったらもう夕方で、明日も早いのでさっさと寝ます。

2016.09.26

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遠くのものを見るのに目を凝らす、という行動を意識的にする自分に気付いたのが何日か前の話。遠くにあるものは、今までは視線を向ければ見えることが常であった。だから、「目を凝らさなければ見えない」ことに気付いたのが驚きで、衝撃だった。前職時代に一年勤めただけで視力がぐっと下がってしまった時点である程度の諦めもあったのだが、どうも僕の目は順調に曇り始めているらしい。今や身の回りには眼鏡やコンタクトを入れていない人間の方が少ないように思える。液晶画面を毎日毎日飽きもせず覗く習慣が組み込まれてからというもの、人間(少なくとも日本人)の平均的な視力も落ちていっているのだろう。種の何とやらという話。視力が退化してやがて目そのものがなくなり、他の感覚が発達した諸々の生き物のことを考える。でも人間の場合はそうはならず、あくまで外部のプロダクトありきの退化の仕方をするのだろうな、と思った。機械と肉体が入り混じるゲームや映画のキャラクターような体になってしまうのかもしれない。仮にそんな退化をするとしたら何世代か後の子孫たちの話になるだろうから、未来の命のことを不憫に思った。
月末の週末は仕事が忙しくて久しぶりに帰りが遅くなった。毎晩やるゲームは楽しいけれど日常のマンネリ化から脱却せねばと思ったので、勤務中に車屋と美容室に電話をかけてそれぞれ点検とパーマの予定を入れた。9月は特に遠出や大出費のイベントがなかった為か、口座の残高は少しばかり数字が増えていた。だからという訳ではないけれど10月には連休をもらえるよう交渉したので、またどこかへ旅に出ようと思います。きっと、たぶん、君の街まで。

2016.09.22

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前に書いた日記は本来思っていたことと別の着地の仕方をしてしまったので改めて書いておくのですが、知らないことが多いということは知る喜びに出会う機会も多いということなので、そりゃリスクもありますけどそういった出会いや選択というのは人生を楽しくさせますよ、いいですよね、みたいな話です。端折り過ぎてる感じはありますが気にしません。最近は労働の合間にゲームと睡眠と食事を挟んだ1日が連続していて、良くも悪くもそれだけなので淡々と日々が過ぎている。もう今月も下旬に差し掛かっていることに驚きを隠せないという旨の話を毎月していると思うけど、やはり今回もそう思った。海に行く予定がまさかの頓挫で心で泣いた。日を追うごとに部屋が汚くなっていくので次の休日には片付けようと思う。気温が下がって長袖に腕を通したら、心地よさに安堵した。秋服が好きだ。春に着る服も秋服で賄えちゃうから。みんなが桃、鶯、水色のような春らしい装いをしている時に枯れ葉のような色合いの服を着ている僕を見たら、そういうことだと思ってほしい。
先日は、ネット通販で頼んだワカナミ堂の新聞が届いたので腹筋を鍛えながら読みました。もっとこういう外界からの刺激を浴びて、今の自分の心のつらい部分を救いたいと思いました。現実でつらいことがひとつ起こったら、10の幸せで希釈しないと心が保たないから。仕事や対人のストレス耐性は鋼の強度なのにまだまだ自分の心には柔らかく傷つきやすい部分があるようで、それが何とももどかしいし、悪い意味で人間くさくてやだなと思う。でも客観的に見たらかわいいものなのだろうな。

2016.09.18

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残暑という言葉があるが、暑さが一体どこに残されているのかは今だ解明されていない。わからないまま秋雨前線というものがやってきて、雨で地表を冷やして秋の用意を始める。数日前まで掛け布団を出すにはまだ早いなどと思っていたのに、窓から吹く風が冷たかったから、薄手のふわふわとした布団に身を包むことにした。ここ数日睡眠が浅い日が続いていて、脳が完全に機能していない、もやがかかったような気持ちで日々を生きた。こうして画面に向かって文字を打つことは心から湧く言葉をそのまま送り込んでいるような感覚があるので何も苦にならないのだけど、声に出そうと思うと肉体の存在をひどく意識してしまって、なかなか思うようにいかない。疲労や気分の浮き沈みによって思う通りの言葉がなかなか口から出なくなる。心では飛び跳ねて喜ぶようなことでも、体はぎこちなく笑顔を作る程度になってしまったり、これはとてももったいないことだと思う。誰しもそうであると思うし、心と体の差異をなくせばいいかというとそれが最適解ではないだろうからなんともできない。わからない。わからないことだらけのものに囲まれて生きているのだなと思う。近所の細道の行き先も、名前ばかりよく聞くかの地のことも、天気のことも、好きな人の振り向かせ方も、これからの身の振り方も。最近はいろんなきっかけでいろんな人と出会うようになって、自分と違う道を選んだ人のその後とか、僕が知らないことを知っていることとか、それぞれの人生経験の集積のかけらを時折垣間見たりする。自分も他人に対して何かを見せたり聞かせられる人になっているだろうか。年を取って見た目のステータスが落ちる一方なので、それ以外の部分を磨くとしたら、年収と教養と技術。でもそんな言葉にまとめたら楽しくないから。つらいことが多くあったとしても、それでも楽しかったと笑って死にたいよ。

2016.09.16

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曇りのない青が上空を覆っている時は陽射しの暑さを恨めしく思うのと反対に、冷たい夜の風が吹くときは空は不恰好な灰色を浮かべている。雲のない夜空を最近見ていない。数日先の天候が気になる時ほど空は晴れてくれないもので、手持ち無沙汰の僕は慣れない香水を腕なんかに塗りつけながら空を仰いでいる。駅と連結した商業施設の屋上には庭園があって、都心にも関わらず水音と鈴虫の鳴き声が聞こえる癒しスポットになっていた。こういう場所は異性と二人で来るといい雰囲気になりそうだ、と思ったが、思惑に反してそういった人はいなかったし、僕は一人だった。屋上に吹く風は心地良くて、その気になれば風に吹かれていつまでもそこに居れるようであった。でも程なくして警備員が閉館を告げに来たので、腰掛けていたベンチから立ち上がる。こんな事を言うと中学二年の男子生徒のようだが、風が好きだ。天気を気にする理由は数日後に海に行く用事があるからなのだが、海にしても、目的は塩水に浸かることではない。日本海から吹きつける荒々しい潮風を全身に浴びることが楽しみなのだ。街中にしても、田舎の細道にしても、風が運ぶ温度や匂いに心が動く。花の匂いで心踊らせることも、慣れ親しんだ故郷の温度で心穏やかにすることも、風は知っている。風は自然現象のひとつで匂いの元なんていくらでも原因を究明できるし、その風で何か天啓が降りるかといえばそんな事はない。だが、黙っていれば心の内から湧き出る日常の雑念を一掃してくれるような、そんな作用が風にはある。そんな理由で、ただ風に吹かれるだけの無駄な時間が好きだ。「何もしない」ことが無駄であるかどうかは本人や場合によって変わってくる。僕はそういう無駄でない無駄な時間が好きだ。今は海と金木犀の香りが待ち遠しい。