喪服日誌

唐揚げだけが人生だ。/@yuki_mofk

2015.08.05

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茹だる、という言葉と茹でる、という言葉が似るところには共通項があって、それはいずれも高温(及び熱湯)によってぐったりする所である。出張先から戻る日に炎天下の中で水を浴びたような発汗をして、やはり茹でられたようになって帰ってきた。岩手県には岩手山という逞しい山があって、まさに入道と呼ぶに相応しい積乱雲がその山並みの美しい曲線をなぞるように盛り上がり、今が夏なのだと思い知らされる情景が広がっている。新陳代謝が活発な体は今も健在で、汗と日に日に黒みを増す肌の色が、体に夏を刻みつける。今年は蝉が大人しいと思ったが、ここ最近の生活環境の中に自然が少なくなっているだけだった。もうどこをどう取っても夏だ。休日、自室で茫然自失同然の状態でこれを書いている。気付けば夏季休暇は翌週に迫っている。夏が始まった、なんて思っている間に、もうその只中にいる。季節に、時間に、意識が少し取り残されつつある。こうしてあれよあれよと手元や意識からすり抜けていくものを数えるうちに歳をとるのだな、と思う。昨日は大学の友人とご飯を食べて、夏季休暇を楽しく過ごす為に話を詰めた。帰り際、互いに最近通った病院の話をして、こうして通う病院の数が増えておじいちゃんになっていくんだね、と二十代にして老いを見据えて、二人で苦笑いをした。時間に感情はないから、体が悪くなるのは摂理だから、抗えないものの中で何を見出してもそれらを覆すものにはなり得ないけど、目の前の単純な感情を精一杯大事に抱えたらいいんだと。おいしい、楽しい、好き、嬉しい。すり抜けても満たし続ければいい。穴の空いたバケツを人は一生かけて満たし続けようとする。不毛だが、それでいい。穴を埋める方法より、莫大な水量を吐き出す蛇口を見つける。多分その方が楽しいから。