喪服日誌

唐揚げだけが人生だ。/@yuki_mofk

2015.11.07

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結構前に真夜中に大泣きしたことがあって、その時に優しい言葉をかけてくれた学校の先輩のことを、福島で西日を浴びながら仕事をしている時に急に思い出した。ユキはかっこいいよ、と言ってくれた。なんで泣いているのかもわからず涙が止まらなかった僕は、その言葉でさらに泣いてしまった。翌朝ツイッターの画面を見たら星をつけていたはずのその言葉は消えていた。でも今もこうして心に残っている。自分の感情を揺さぶる大きな出来事というのはなぜか夜に起こることが多くて、そしてそれは多分みんながそう。夜に考え事をしてはいけませんよ、という言葉をたまに思い返すけれど誰の言葉だっけか。でも夜に行う考え事は大抵ネガティブに転がる確率が高くて、この言葉には信憑性があると思う。でもそんなことを理解したところで感情の塊、心とかいうものを失恋とかケンカとか人の死とかもっと心が荒む何かとかが激しく揺さぶるものだから、激情は避けられない。そして心が弱ってしまって、ぽつりぽつりと心がキーボードを叩き、インターネットに投稿してしまうことがある。もう10年以上そんな現象がこの世では起きていて、様々な形をしたそれらを僕らは時折見かけては、流し見たり、見なかったふりをしたり、言葉をかけたり、かける言葉を見つけられず文字とバックスペースを交互に押したりするのだ。感情の振れ幅の大小なんて当事者にしかわからないし、迂闊に当たり障りのない無難な言葉を投げようものなら、何も知らないくせに、と牙を剥かれるかもしれない。気遣って何もしないという選択肢もあるけれど、それは相手には伝わらないのだから言ってしまえば自己満足だ。でも発信者からすれば、何かクリティカルに響く言葉を待っている訳でも、言われたい言葉がある訳でもない。目的は発散と整理だ。だから、予想外の角度から切り込まれるとどうしようもなく崩れてしまうのだ。大丈夫とか、お疲れ様、辛かったね、なんて誰でも言える。踏み込んだ言葉というのは、相手を理解していないと出せない言葉。その人は誤った言葉の選択で自らに面倒が飛び火するリスクを知ってか知らずか、そういう言葉を投げかけた。これはすごいことだ。かっこいい、と言ったのは、単に容姿をどうこう言っているわけではない。立ち向かう姿勢が、なんて話でもない。深夜2時過ぎに実家の部屋で涙でぐずぐずになっている僕の姿を知っててそう言ったのだ。そんなことを3年以上経った今になって思いついた。歳を取ると簡単なことでポロッと泣いてしまうのは、その簡単なことの儚さをわかっているからだと思う。当たり前が当たり前であることのありがたさとか、そういうやつ。伝えたかった想いは時間をかけて言葉になったけど、もう言えないから。