喪服日誌

唐揚げだけが人生だ。/@yuki_mofk

2016.01.10

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海が見たいと思ったらすぐに駆け出していけるような場所に住みたいと思うけど、現実のいろんな問題と擦りあわせたらそれは叶わないのだろうなと思う。でも高速道路を走って2時間以内に到達できるのだから、もうそれでいいやという気分もしている。何の話をしているかというと、実家周辺の立地の話だ。時折、急に海が恋しくなる。乱暴に髪を攫う潮風、生臭い匂い、波の音、波打ち際の漂着物。命や遠い海の果てのこと、漂着したゴミのふるさと、流木が旅をした過程と月日。いろんなところにドラマが転がっていて、胸が躍る。何かひとつのことを言葉を重ねて書き出したり(ここの日記たちを除く)、写真に収めたりするのは何かが自分の感覚を刺激した時なんだけど、海はその宝庫だ。砂浜の砂を指で掬えば、それが細かな土だけではなく貝の破片や見たことのない何かの欠片であったりする。ドラマだらけだ。山は山で、地滑りの後で地層がむき出しになっているのを見ると長い年月を経て積み重なったその質量に圧倒される。新緑のまばゆい黄緑、何かを隠すように重なり合う暗緑の茂み。その奥、その根元、伸びきった枝の先、成った果実と腐れ落ちた果実。生き物の足跡、死骸、営みの跡。これもドラマまみれだ。僕は特に写真において、良いものを作り出した時は大抵自然が被写体になっていたことが多かった。「良いもの」を構成する要素とは、写真の巧拙もあるし、どこを切り取るか、どんな色合いで見せるかというセンスもある。でも、それらは写真に写し出された「自然」が雄弁に語る様を助長する要素でしかない。写ったものがどれだけメッセージを語るかだ。見た人の心がどこにどう引っかかるか。自然は面白い。何もしゃべらないくせに自分より博学で、長寿で、美しくて汚くて、いろんな表情を見せてくれる。キーボードを打つ自分の手を見る。日々皺が増えるこの肌も、僕が老人になる頃には何かを語り出すのだろうか。最近そういった自然に触れる機会がないなぁ、冬の日本海や露に濡れる森に行きたいなぁと思っただけなのに、気付いたら写真の話をしてしまった。