喪服日誌

唐揚げだけが人生だ。/@yuki_mofk

2016.01.23

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お願いごとの話をしたら、初詣に行ってなかったことを思い出した。会社として毎年参拝する神社には行ったけど、あれは個というより社という単位に対しての祈祷であったからノーカウントとしている。何年か前に、年末に会った地元の友達と二人で神社に行ったことがある。初詣ならぬ末詣だと笑った。でもその年1年の感謝を伝えることは気持ちがいいと思った。初詣とは別の場所であるし、奉る神仏も違うかもしれないからそういった宗教的な意味は成さない行為だったかもしれないが、顔も知らぬ、名も知らぬ、効果の確約もない祈りごとなんて自己満足なのだと思っているから、そんなことはどうでもいい。自分に1年の目標を立てたり、願望を言葉にするきっかけとしての参拝なのだ。これは前の日記とも通じる部分がある。本当は年明けにひとり地元のお寺に行ってそれを済まそうと思っていたんだけれど、僕が地元からいなくなっていた間にお寺は焼失していた。かつて境内では夏になると出店が並び、盆踊りやカラオケ大会が行われ、子供たちは花火を楽しむというささやかな憩いの場所だったのだけれど、周囲にそびえ立つ杉の黒く焦げた樹皮を見て、その記憶すら燃えてしまったような気がして少し悲しかった。そこで何をしたとか、こんな思い出があった、というような思い入れはない。でも、地元では夏になるとお寺で盆踊りがあってね、と人に説明できるくらい「自然」なことであり、風物であり、当たり前のものだった。それが忽然と、感慨に耽る時間ごと、パッと消えてしまった。何かに似た喪失感だと思ったら、祖父が亡くなった時と同じだ。高校から電車で帰る途中、母からのメールである日突然届く事実。実感もないまま呆然とするあの気持ち。当たり前のものが突然無くなるということは、涙を伴わず、声を上げることもなく、ただ記憶に黒い穴を空けるようで、そしてそれはこの先いくつも経験していくことで、それが少し怖いなと思ったけれど、こんな感覚にも馴れが来てしまうのだろうな。いずれ空いた穴にはいろんなものが詰まって塞がっていくのだろうけど、空いた穴の事を忘れないでいたい。そんな目的の為に写真を撮るのもいいのかもしれない。