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喪服日誌

唐揚げだけが人生だ。/@yuki_mofk

2016.03.13

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曜日の感覚がなくなってきたのは長期休暇ぶりで、今も長期休暇の只中にいるのだからそれはそうだろうと思いながら日々が流れていく。車も買ったし通帳の中の数字が急に頼りなくなってきたので慎ましく生きようと思った。思ったので、もやしをふた袋買って野菜炒めを作ってモリモリ食べた。大学1年生の時に何故かもやし炒めを作り続けていた時期があったことを思い出した。友人の家で夜な夜な作ったそれは塩加減が曖昧で、大抵塩辛かった。鳥のささみともやしのみのヘルシーの塊であることが多かった。なんでそんなことをしたのかは思い出せないけれど、唐突に突拍子もなく今までさほど気に留めていなかったものに突っ込んでいくこと、時期がたまにある。マイブームというやつだ。流行りが燃えては灰になって、いつしかふとした瞬間にその灰をつまみ上げて焼失した記憶を辿ろうとしたりする。今みたいに。それを積み重ねて、いつか自らも灰になってしまった時に、それを掃き捨てるもダイヤに加工するのも他人の手だ。人は2度死ぬ。肉体と、他人からの認識・記憶がなくなった時に。覚えてもらわなきゃ自分の存在はなくなる。だからいろんな手段で人に感情を伝えるし、それは洞窟の壁に石で文字を刻んでいた時から変わらない。お腹が空いたとか、誰かに苛立ってることとか、雑多な情報が昔より目につきやすくなった世の中で、なんとか人に見てもらおうと広告の企業なんかはあの手この手で検証していたりするけど、雑多の一部である自分の声はどこまで届いて、誰の記憶に残っているんだろう。この宛名のない手紙はどこまで旅をして、誰の手に触れているのだろう。そもそも触れているのだろうか、届いているのだろうか。少なくとも、僕は生きるうえで他人との接触を全く断つことは不可能だし、したいとも思わない。なら、どうせ宛てのないものなら伝える声は大きく、響くものであるべきだと思った。これから何が出来るようになって、何に没頭して、何に届くのか。漠然とした期待と僅かな不安が心の中で踊って、24年目の人生に火がついたのだった。