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喪服日誌

唐揚げだけが人生だ。/@yuki_mofk

2016.03.30

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借りていた家を引き払った。何もかもを取り払った空間を前にして首をもたげてきたのは、入居時の、前の住人が汚したままの部屋の記憶だった。あれは物件の下見の時だった。その時よりは綺麗にして部屋を出ることができた、と妙な達成感。それだけだった。もっと感傷的になるかと思ったが、そんなことはなかった。誰かとの思い出だったり、誰かという存在そのものだったりが色濃く絡んでいたら別なのかもしれないが、自分一人で向き合うことに関しては、感情はいつもドライだ。「現実」という言葉を、「事務的で、真面目な事実(事象)」に対して充てるのは本来おかしな話なのだが、退職をする事実とか、退去をする手続きだとか、そういう現実的なものと向き合う間、心はずっと静かでいる。そういうことが済んでからようやく感情が追いついてくるのだが、その時に湧き上がる感情というのはもうある程度整理が成されているから、大きく心が揺れることはない。小石を池に投げてみても、円形のさざ波は穏やかに消えていく。そうして4月がくる。日常は何かと慌ただしく動いていくのに、そういった心の静寂とは釣り合いが取れない。気温が高くなってきたとか、日の光が心地いいとか、草木が芽吹いてきたとか、ささやかな自然の変化が全身に降りかかって、そんな心をより惑わせる。地に足が着かない心地。生き物としての春の喜びと、年度という区切りから始まる何かしらへの期待と不安で、心が小刻みに震える。浮き上がり、不安定な感触。春に浮かれるとはこういうことか。人との出会いが重なれば、人間の足元なんてなんと隙だらけであることだろう。足元がお留守、というと大抵は悪い意味で捉えられることが多いが、春の魔法にかかれば思いもよらぬ結果をもたらす事もある。移ろいゆくのは季節だけではないってこと。根を下ろした心は、それはそれで春風に枝を振るうから、さぞ楽しげであることだろう。春を、季節を楽しむことは生き物たる証明なのかもしれないから、花粉と黄砂にまみれながら僕は今日も日々を踊るのだ。