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喪服日誌

唐揚げだけが人生だ。/@yuki_mofk

雪の鯨の話

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子供のような、大きな瞳の輝きが僕の姿を写した。
春も間近になってきた夜道、仕事を終えて職場を後にした僕は、駐車場にいた。最近は雪が雨に変わり始め、吹く風もどこか太陽のぬくもりを感じる。冬の間に駐車場に積もった雪は除雪車によって片隅に寄せ集められ、冬の間に小さな山を形作る。この山もそんな気候の変化によって日ごとに少しずつ小さくなり、そばの路面を濡らしながらやがては消えていく。例年の光景である。僕はよくこの山が積まれる場所の近くに車を停める習慣があって、今回も当然のようにそこへ車を置いた。置いたのだから、また乗る為に駐車場にきた。リモートキーで解錠する。車のウインカーが点滅する。ドアに手をかける。運転席のガラスに僕が映る。そして、その僕の後ろの雪山も。
大きな瞳が、その雪山のまんなかにあったのだ。
気を抜ききっていた僕は不意をつかれ、「ひっ」と声をあげた。そののち、努めて落ち着こうとした。雪の塊に生き物のような目が?ついているとでも?そんな筈はない。たとえば路面だけでなく土の上を舐めあげた雪なんかは茶色のままで山の一部となるのだから、偶然黒っぽい丸い点が雪の表面についていても何ら不思議ではない。あるいは誰かが何かをそこに置いたまま、忘れて帰ったのかもしれない。ただそれだけだろう。そもそもおかしな見間違いなどよくある話だ、声などあげてしまって恥ずかしい。この駐車場にいるのが僕だけでよかった、明日の職場の話題の的にされる所であった。振り返って見てみよう、それにしても一体何を見間違えたのやらーー
瞳が瞬きをしたので、気休めの思考もそこで終わった。
僕はとうとう腰を抜かした。尻餅をついて、車体に背中を預けてへたり込んだ。瞳は、確かにそこにあった。暗がりでよく見えないだけなのか、あるいはそういうものなのか、真っ黒な、しかし艶のある、生き物の眼球だった。目蓋は雪そのものであり、よく見ると目の周りには横一線に伸びた皺が何本かあった。既視感を覚えて思考が知識の中から近しいイメージを引っ張り出してきて、脳裏に浮かべた。クジラの目だ。覗き込めば吸い込まれそうな、深遠に色があるならばこんな色であろうという、深い黒だった。
「おう、おばんだな」
続けて、声が聞こえてきた。そんな挨拶を投げかける相手が今この場にいないことは分かっている。そもそも職場の鍵を閉めて出てきたのは僕だ。誰もいない。この場において、生き物の目を持った雪山が目の前にあって、僕は今パニックになって声さえ出せないでいる。声の主を僕以外の何かから探そうと思ったら、今目の前にある目玉のついた雪山とするのが、馬鹿馬鹿しいが、道理であると思った。瞳を見上げると、少し目を伏せて、しかしこちらを見つめる黒の点と視線がぶつかった。僕は今、喋る雪山と対面している!誰が聞いても気が触れているとしか思えないだろうが、そんな気の触れた事実が今ここにある。僕は恐る恐る瞳に対して頭を下げた。おばんです、とは、こんばんは、という意味の方言であるが、とてもそんな日常の習慣を未知のものに繰り出せる肝は据わっていなかった。
「おれの声が聞けるのかい」
あぁ、やはり普通は聞こえないものなんだな、これは未知との遭遇なんだな、という実感を理解して、鳥肌が立った。はい、と声を出してみたが随分掠れた音が出た。そんな応対でも満足なのか、瞳は目を細めた。目尻の皺が横に伸びる。笑い皺だ。それからこの雪の鯨は低く、穏やかな声で語り出した。その年の冬の最後に雪が降った日から春分の日頃までの間に彼らは生まれること。彼ら、というだけあって複数いるということ。冬の終わりを告げる存在であること。雪の塊に生まれ、雪が溶けるとまた次の冬までいなくなってしまうということ。
そこまで聞いて、心は落ち着きを取り戻していった。未知の生命体と相対する恐怖心は薄れ、どちらかといえばお地蔵様や大仏と向かい合うような、厳かなものと向き合う気持ちに近い。よくフィクションの世界に出てくる精霊や妖怪に近しいものなのだろう。何故僕が突然あなたの存在を知覚できるようになったのか、霊能力的なものなのか、と問うと、知らん、とぞんざいな返事がきた。一年のうちに、その地方に住むどこかの誰かのうち一人は見えるようになるが、そもそも雪の塊が生きているなどとは思わないのが普通であるから、気づかずに冬が過ぎる場合もあるという。では、と僕は続けた。あなたの存在に意味はあるのか、と。そう言うと鯨はまた笑い皺を伸ばした。
「人間が生き死にするのに理由があるかい、季節が移ろうのにも理由があるかい。もしあるとしたらそれは人間の勝手よ、後付けの理屈よ。我らはただ移ろいゆくものよ」
意味はないという。こんなにも未知で非現実的な存在と相見えたというのに、そこには何の意味もないという。周りにあるあらゆるものの意義や理屈も揺らいでしまうような気がした。彼ほどの大局観からすると、おそらくただの現象としての命であり、季節であるということだろう。
そうこうしているうちに、ぽつり、と雨が降ってきた。夜は相変わらず冷え込みはするが、雪として降るほどの寒さはもう残っていなかった。行きな、と鯨の声が聞こえた。
「意味のねぇもんの話を意味もなく聞いてんのは勿体ねぇと思うがね。まぁ、それでも人間は理由をつけるのが好きだからねぇ」
では何故声をかけたのだろう。少し釈然としなかったが、言われるままに車に乗り込んだ。エンジンをかけた車の内側からもう一度雪山を見る。溶けかけた山の全容は、昔京都の水族館で見た大山椒魚にも似ているな、と思った。去り際に声をかけようとしたが、瞳は雪の中に埋もれて再び見つけることができなかった。この不思議な現象と、また話してみたいと感じた。人間は意味のないものが好きだから。