喪服日誌

唐揚げだけが人生だ。/@yuki_mofk

2019.05.31


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天気予報に一か月予報というシステムがあることをつい最近知って、そこから六月が始まる前から六月も暑いよとネタばらしを食らってアンニュイな今日。五月の終わりの始まりは慌ただしく始まった。二度鳴る設定のアラームを二度止めて、うたた寝が少し長く続いたところから我に返ってバタバタとシャワーを浴びてご飯を食べた。福島の北部に昔の一軒家をリノベーションした、趣のある、広い、モダンな、素敵な住まいがあって、庭から数歩行けば隣接しているアウトレットモールにも行けるような。そんなところを両親が定年後の住まいとするよ、という旨の夢を見ていて、その内容が気になって追いかけてしまっていた。昨晩は地元のライブハウスに来ていた女王蜂のライブを観ていて、その晩の夢がそれか、とも思うが、夢の内容にケチをつけるほど無駄なことはない。
ライブで女王蜂の図鑑を買って(虫が大好きな人のように聞こえる)それを読んでいた時に、女性性を感じる文体を好む気質があるのかも、と気付きがあったのでその話。日記をつけることの始まりは男から来ていて、日々の記録に文学性を持たせて揺れる心情を描写することは漢文だけでは繊細に描けなかったので、かな文字を取り入れてやってみたのが土佐日記(違ってたらごめん)。女性的な表現が必要だった。まだTwitterがなかった頃から、昔からのぞいている先輩の日記とか、今でも近況を追いかけている同級生のこととか、今は亡きインターネットカリスマンの日記とか、そのどれもに女性性を感じることが共通項としてあって。ほぼ確実にそういったものの影響を受けているから、今でもこういう日記を書こうと思うと自分の中の女性がちらちらと顔を出すような気持ちがある。一種の女々しさというか。メシ食って寝るだけの話をどう飾るかを考えたら野郎の思考では到底盛りきれないから。先日、文章について言葉少なくTwitterで言及したことがあったけど、本当に学校で習うような文法に沿おうと思ったら一文はもっと短く切るべきだし、読点でもう少し刻むべきだし、段落は分けるべきなのは百も承知の話。自分の文章にそれを設けていないのは紛れもなく影響を受けた人々の文章からきていることで、くせのある、でも哀愁や美学を感じる文字群の塊を眺めるのが好きだったから。こんな自分でもインターネット文学の括りで言えば、面白ポイントをフォントサイズや色を変えてバカみたいに強調したテキストサイト(Flashアニメ全盛期ぐらいの時の)が始まりだったし、自分も倣ってパソコンでホームページを作ったし。半分手癖のような気持ちで書いているこういう日記を誰に刺さる訳でもなく、ネットに流していくのは、川辺で手近な草を千切って川に流してその行方を見守るような、そういう気分があります。意味のないこと。