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喪服日誌

唐揚げだけが人生だ。/@yuki_mofk

2016.05.29

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京都に行ったことについて長い長い文章を書いていたんですが、日を幾日か跨ぐと熱が冷めるのはどんなことでも同じで、今はそれら全てを削除してまた新しく文字を紡いでいます。思い出を辿るのにモノに頼ったことがないな、と部屋の隅で埃を被っていた中学生の頃の修学旅行のしおりとか学内の広報誌を次々とゴミ袋に詰めながら思いついた。思い出となる当時の感情や出来事の衝撃は何年経っても強く心に彫り込まれていて、その溝を指でなぞれば当時の映像や音声が脳裏に浮かんでくる。形あるもの、例えばライブで大好きなアーティストがピックを客席に放り投げ、それを運良くキャッチできたとして、きっと心に残るのはピック自体を手にした喜びよりも、投げてよこしたアーティストの身振り、ピックを掴んだ汗ばんだ自分の手、ステージの熱気、隣り合った人のぶつかった肩の温度、そういうもの。ピック自体はもちろん目に見える形での思い出だけど、一度心に刻まれれば物体がなくたって何度も思い出せる。記憶と思い出に違いがあるとすれば、忘れるか忘れないか、という所だろう。記憶は薄れるものだけど、思い出は不思議と心から離れない。長い人生の中、今お金をかけて得ている小さな空間のことを思えば、身の回りに置けるものの数や大きさには限りがあることは自明であり、人生の終わりまで連れ添うものの限りも僅かであることもまた明白である。この考えの果てが物品に頓着しなくなった生活だとか、解脱という境地であったりするのだろう。心の容量には底があるのだろうか、それともないのだろうか。以上、段ボールひとつ分の思い出の品々を思い切って捨てて、部屋を片付けた話。