2016.07.25
ちょっと日記を書くことを忘れている間に、ひぐらしが鳴き出して、世界的なポケモンの乱獲が始まって、今僕は久しぶりに電車に乗っている。前も京都へ旅立つ前に日記を書いた気がする。電車からぽつりぽつりと駅に降り立つ高校生の夏服が目に眩しかった。いつも思うことだけど、日めくりカレンダーの日付を毎朝事務的に破り捨てていくように、毎日は淡々と進んで行く。仕事で毎度いろんな理由で日にちを紙に書く。25という数字を小さな署名欄に書きなぐる。続けて苗字が走り書きで紙面を駆ける。汚い字。安物のボールペンはぼそぼそとした太い線を描く。数多の手続き。移ろいゆくものは記憶に残らないから、日報とか契約日とか名前をつけて記録にしていくんだね。記憶と記録という言葉をセットにしたがる人が多いのはラッパーに憧れているからです。韻を踏んで言葉を紡ぐことはレベルの高い言葉遊びだけれど、たくさん話すことはセックスに似た快感を脳に与えるらしい。語感の気持ち良さも重なってラッパーはさぞかし気分がいいだろう、かつての本場のラッパーは薬物と暴力がセットになっていたらしいので最早快楽祭りといったところか。このように取り留めのない雑念が脳裏をよぎるのはいつも通りで、電車がホームに滑り込むのと僕が日記に何を書きたかったのかを忘れてしまったことに気付いたタイミングはほぼ同時。日々生きてて書き留めたいことがあればその時々で綴るんだろうけど、あいにく僕はそこまで筆まめでも自律して筆を取らんとする程意識は高くない。あぁ、そうそう。思い出した。これから鎌倉に観光に行ってきます。あと彼女と連絡が取れなくて悲しかったこととか、仕事がジグザグの軌道を描きながらもなんとか楽しくやれてることとか、あぁ、なんだ、泉のように湧いて出るじゃないか。話したいことはたくさんあったはずなのに、恋人の前とか、マイクの前とか、大事なとこで出てこなくなる現象はなんなんだろうね。
2016.07.06
太陽に熱されたアスファルトと雨によって冷やされた大気が混ざり合って、人の吐息にも似た温度の風が肌を撫でた。梅雨らしいといえば梅雨らしい、じっとりとした雨が降る。雨の上がる翌日は、夜分に溜め込んだ水分の蒸発でやはりじっとりとした風が吹く。近頃こんな調子で、いかにも梅雨らしい気候に触れるのは久しぶりではないかと思った。雨音が全てを支配する時間が、家に一人でいる時、エンジンを止めた車に乗る時、布団の中で目を閉じた時、ふと訪れる。その時間が好きだ。高校一年生の頃、始発電車で登校して教室に入ると他に生徒がいない時間があった。ある日、そんな雨の朝にNEYOのSo Sickを聴いた事があって、晴天の下で聴くよりも、すっと心に染み入った心地がした。雨のノイズに他の存在が霞んで、音楽と自分だけがそこにいた。そんな気分になった。ここ数日、不規則な生活が続いているせいか眠りたい時に寝付けなくなった。世の中にはいろんなアプリケーションがあって、雨音をBGMとして流してくれるアプリが存在する。眠れぬまま迎えた午前4時に鳴らした雨は、自在に雨足の強弱を変え、遠雷を響かせた。目を閉じた暗闇の中でその情景を思い浮かべる内に、いつの間にか眠っていた。雨音に安らぎを覚えるのはホワイトノイズに似ているからで、言われてみれば確かにテレビの砂嵐に似ている。子宮の中にいる胎児も、母親の胎内の中で似た音を聞いているらしい。自然由来の雑音も人工的なものも、原初に立ち返る気持ちにさせるのは面白いと思った。湿度100%の話をしましたが、このブログも開設からもう1年が経ったようですよ。
2016.06.23
夢の中で僕は懐かしのヒットパレードを不特定多数の人々と幾度も大合唱していて、そんなアホのような活動で誰かを救おうとしていて、夢から覚めると実体のない充実感だけが胸の内に残った。ここ一週間ほど好きな人に贈るプレゼントの内容についてあれこれと悩んで、ようやく着地点が見つかったので心の荷がひとつ降りた。普段人になにかを贈る時は割とすぐにこれやこれやとモノを選んでしまうのだけど、今回は珍しくプレゼントのチョイスを小難しく悩んでしまった。贈ったものが邪魔にならず趣味嗜好に合い、役に立ち、きちんと喜んでもらえるか、と悩むのだが、要は自分がうまくそれらの点を器用に押さえ、マイナスの感情(要らないだとかタイミングが悪いとか不快だとか)の発生によって自分の評価が下がらないか、という自己防衛、もっと言えば見栄っ張りの思考なのだな、と気付いてからは、奇を衒うことなく無難なチョイスでもいいじゃないかと思えた。郵便物を送るのとプレゼントを贈るのは、モノを送るのか心を贈るのかの違いなんだと思う。贈る心に迷いがあったりしたら中身もそのようになるということ。人に恋文を贈るのを躊躇わない人がいないように。
今年の夏至は曇り空で過ぎ去ったので少々いやかなり残念だった。いつの頃からか、夏至の日が好きになった。一年で一番好きな日と言い切っていい。燃えるような夕焼けが空を染め上げて、19時を過ぎても空は明るかった。一年の内で日照時間(昼間)が一番長い日だと知って、夕闇の美しい空の色をこんなにも長い時間見る事が出来るのか、と嬉しくなったのだ。「夏に至る」という言葉も好きだ。太陽は夏至を境にまた顔を出す時間を縮めてしまうけど、夏はそこから始まっていく。学生の頃、初めて写真をパネルに貼り付けて展示した時。夏の間に出会った川魚やアメンボ、スズメバチ、セミといった生き物だけを写した「ライフ」という展示を行ったことがある。その時撮影したセミは死骸となってアスファルトの上に寝そべっていたのだけれど、その側には日照りで干からびたミミズのそれも寄り添っていたりして、あんなにも命の栄える季節に、こんなに近くに死が転がっているのだと、なんとも言えない気持ちになった。かつて祖父が亡くなった時も夏の日だった。日が短くなるというのは、何かの終わりが近付いてくるような寂しさとか、怖さも伴っているような気がする。だから、死とかそういう概念と重なる部分があるような気がする。あくまで感覚的な話なのだけど、そんな事を思い出させてくれる夏至の日が好き。
2016.06.13
遮光カーテンは9時を過ぎても部屋に日光を入れることを許さずそこに居て、寝転んだまま携帯を見たらみんなが雨の話をしていた。今日は雨なのか、ここは雨なのか、それとも遠い場所の話か、と思ってカーテンを開いて、そこでようやく外が雨に濡れていることを知った。世の中のあらゆるものが音もなくしっとりと濡れていく様子は現実味がなくて、雨の降る森のことを思った。かつて何かの機会で山に入った時、空から落ちた雨粒は何度も背の高い木々の葉にぶつかり、大小様々な形で肌に着地してきた。柔らかい土はぼこぼこと身を打たれながら表情を変え、苔むした岩共々生き物のような素振りでそこにいた。標高が高くなると雨は質量を失くして、白い霧として身を包んだ。吸い付くように水が肌に触れて、やがて雫になって服の袖を濡らした。山の天気は変わりやすいという言葉がある。雨が形を変えるように、佇むばかりの草木や岩に命を感じるように、何かを変容させる環境が山の中にはあって、それは化学や理屈で説明がつくロジックがあるのだろうけど、人はそこに神聖さを見出す。大木と対話してみたり、天狗が出てきたり、岩に注連縄を掛けてみたり。仙人という人物が山と仙界以外から現れた話も聞かないし、仙界や天界という世界は決まって雲の上に広がっていたりする。人智を超えたものに触れたければ、山へ登ることが手っ取り早いのかもしれない。ファンタジーの世界に没入するより先に出勤時間が来たので僕が山へ夢を見に行くのはまだ先になりそう。あぁ、東北も今日から梅雨入りしたんですってね。