喪服日誌

唐揚げだけが人生だ。/@yuki_mofk

2019.12.03


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冷たい雨と濡れた落ち葉の光景が11月の印象ですが、11月だと思ったらもう12月だった。今年はハロウィンにちなんだイベントにも全く関わらなかったので10月の記憶も曖昧。電車の時間までの時間つぶしでたまたま入った無印良品には本が売っていて、たまたま目に入った精油についての本を眺めることにした。アロマオイルは確かに自作したら安いのでは?と思ったけど奴らすぐ蒸発しよるくせにコスパ悪いんじゃと思い直し、よく知る為に原子と分子の構造についての理解を深めようという旨のページに出くわしたら脳の文系小僧が嫌悪感を示したのでそっと本を元の隙間に戻した。ここ10年ぐらい本当にちゃんと本を読んでない気がするけど、本を読まないことに罪悪感のようなものを覚える感覚は今となっては旧いのかもしれない。でも日本語の羅列ひとつ取っても、むしろTwitterの140字以下の文ひとつでも教養の無さはすぐ露呈してしまうので、いわゆる良い文章の見本としての読書と、校正をして内省的に文章を処理する作文はやはり大事な行程だなと思う。なんの話???結婚云々のイベントが一通り終わったので人生のテンプレをなぞるとするなら次はマイホームかベイビーかのどちらかなんですが、先月分のカードの引き落としがえげつない金額で預金残高の桁が1桁動くのを見て思考停止した。ペットロスが耐えられないので犬や猫は飼えないだろうという判断をしているけれど、別に我が子が死なない保証もないよな。そもそもあと50年前後には死ぬよな。雪で喪服を名乗るだけあって冬は死の季節だと思ってる節があります。今思うのはこういう話。

相談したって解決しないことはあるし、「死んではいけない」などと無責任に課すことも、それはある意味苦痛の助長。

死んでしまって悲しい、というのは第三者的視点であって当事者には関係のないこと。

迷惑をかけない死に方も存在しなくて、せいぜい手間を被る人数が多いか少ないかでしかない。

人が亡くなること。涙は出ずとも、胸に穴が空くこと。

2019.05.31


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天気予報に一か月予報というシステムがあることをつい最近知って、そこから六月が始まる前から六月も暑いよとネタばらしを食らってアンニュイな今日。五月の終わりの始まりは慌ただしく始まった。二度鳴る設定のアラームを二度止めて、うたた寝が少し長く続いたところから我に返ってバタバタとシャワーを浴びてご飯を食べた。福島の北部に昔の一軒家をリノベーションした、趣のある、広い、モダンな、素敵な住まいがあって、庭から数歩行けば隣接しているアウトレットモールにも行けるような。そんなところを両親が定年後の住まいとするよ、という旨の夢を見ていて、その内容が気になって追いかけてしまっていた。昨晩は地元のライブハウスに来ていた女王蜂のライブを観ていて、その晩の夢がそれか、とも思うが、夢の内容にケチをつけるほど無駄なことはない。
ライブで女王蜂の図鑑を買って(虫が大好きな人のように聞こえる)それを読んでいた時に、女性性を感じる文体を好む気質があるのかも、と気付きがあったのでその話。日記をつけることの始まりは男から来ていて、日々の記録に文学性を持たせて揺れる心情を描写することは漢文だけでは繊細に描けなかったので、かな文字を取り入れてやってみたのが土佐日記(違ってたらごめん)。女性的な表現が必要だった。まだTwitterがなかった頃から、昔からのぞいている先輩の日記とか、今でも近況を追いかけている同級生のこととか、今は亡きインターネットカリスマンの日記とか、そのどれもに女性性を感じることが共通項としてあって。ほぼ確実にそういったものの影響を受けているから、今でもこういう日記を書こうと思うと自分の中の女性がちらちらと顔を出すような気持ちがある。一種の女々しさというか。メシ食って寝るだけの話をどう飾るかを考えたら野郎の思考では到底盛りきれないから。先日、文章について言葉少なくTwitterで言及したことがあったけど、本当に学校で習うような文法に沿おうと思ったら一文はもっと短く切るべきだし、読点でもう少し刻むべきだし、段落は分けるべきなのは百も承知の話。自分の文章にそれを設けていないのは紛れもなく影響を受けた人々の文章からきていることで、くせのある、でも哀愁や美学を感じる文字群の塊を眺めるのが好きだったから。こんな自分でもインターネット文学の括りで言えば、面白ポイントをフォントサイズや色を変えてバカみたいに強調したテキストサイト(Flashアニメ全盛期ぐらいの時の)が始まりだったし、自分も倣ってパソコンでホームページを作ったし。半分手癖のような気持ちで書いているこういう日記を誰に刺さる訳でもなく、ネットに流していくのは、川辺で手近な草を千切って川に流してその行方を見守るような、そういう気分があります。意味のないこと。

2019.05.18

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元号を盾にしたセールスにいい加減うんざりしてきたところで世間はゴールデンウィークに突入し、それも明けた。ビジネスの上では西暦への統一が叫ばれていることはおそらくどこの机の上でも一緒で、歴史はあれど元号がどうあっても特段の感慨はない。自分が昭和生まれだったら何か思うこともあるのだろうか。どこぞの大正生まれの長生きさんは最早ようわからんとコメントしたらしく、自分もきっとそう思うだろうなと考えた。先日、海の近い町まで出かけて、妻が興奮した口ぶりで即身仏を見に行こうと言ったのでそれについて行った。膠を塗られて黒光りしたミイラの窪んだ眼窩と向き合って、ここ数年のどんな出来栄えのホラーゲームよりも不気味だと思った。山が信仰の対象なので山と一体になるべく穀物を断ち、山が生む木ノ実や根を食べ、脂肪や筋肉を故意に落とし、ふらふらになったところで穴倉に埋まり、死ぬまで鐘を鳴らし、死んだら乾燥させて完成。怖くないですかこの思想。草原に寝そべって大地との一体感を感じている程度の手合いにこの話をしたら怪談のように聞こえるだろう。現代では自殺と見なされている、と慣れた口調で住職が説明しているのを聞いて、その判断は妥当だろうなと思った。あんまり掘り下げると即身仏スキーに怒られそう。すごく乱暴に言うと歴史があるというだけですごいみたいなのやめろみたいなことを言いたかった。乱暴といえば弊社人事の乱暴さも猛威を奮っていて、結果として私の役職はまた変わることに。結婚式のことも進めないとなぁ、とほぼ毎日考えている。そしてこれを書いている今は後輩の挙式の出席の為に新幹線で東京に向かっている。坂を転がるような日々だけど萌える新緑は何も知らない。5月はそういう感じ。

2019.04.18


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「死ぬまで◯◯する」という表現に言及した途端、世の中に溢れるワードのなかからそれが際立って見つけられるようになって、それはいつ時計を見ても12:34の表示である気がしたり、ある行動の度にデジャヴを感じている気がしている感覚に似ているなと思った。窓を開けると室内より屋外の方が暖かく感じられるようになった。ベッドの上でくしゃくしゃになっている掛け布団のカバーをいつ洗濯しようかと考えて、それは次の休日のタスクに追加。数日前まで雪が降っていたのになんの挽回なのか気温がリバウンドしていて、意味もなく開けた冷蔵庫の冷感で落ち着きを取り戻す。嫁が漬けた漬物、実家から押し付けられた漬物、食べたくて買って余った漬物などが冷蔵庫に点在していて、実家の冷蔵庫の、食いもしないものが無造作に詰め込まれたあの風景はこうして形作られていくのだと思った。暑くなると食欲が薄れるというと気が早いが、朝食をしっかり作ることに対する意欲が湧かない朝。もう素麺が恋しい。今の住まいに移ってはじめての春は、既に夏の兆しへのうんざりした感情に遮られて風情も何もない。ないけど、昨晩は嫁と夜桜を見に行った。町中を通り過ぎる風に花の匂いがして心地よかった。桜の花の匂いには常に誰かと花見をした記憶が絡んでいて、開花などというものは人が人を連れ立っていくのに都合よく使われてきた建前なのかもしれないなと思った。桜以外の花の開花にも若者やカップルが出向くようになったら日本は何か変わりますか。

2019.04.16


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唐突ですが、昇進が決まりました。今の会社は入社する前から人事の管理運営運用全てが不安で、入社後もその不安は時折片鱗をちらつかせ、社員を混乱させてきた。その混乱の雷がつい最近うちの店に落ちた。結果、入社時から世話になっているベテランと同期が吹っ飛び、空いた上長の席に突っ込まれたという形。上り詰めたというよりはぶち込まれた、階段を登ったよりはUFOキャッチャーで掴まれたという感じ。こう見えて(どう見えた話かはともかく)仕事に関してはマメにコツコツという地味なプレイヤーなのでマネージャー職は向いていると思う。理不尽な叱責や責任の重圧に怯えて白髪を増やしながら頑張る未来が容易に想像できる。先月またひとつ歳を重ね、ゲーム仲間にもおじさん呼ばわりされた事実を静かな衝撃とともに受け止めるこの昨今、仕事も身の丈に合わせて変わってきたというところ。望んで始めた仕事ではないにせよ、目先のイベントをこなしていくうちにこの体はまた老い、仕事もまた往くべき所へ進んでいくのだろう。どんなことでも、身に降りかかる事象は心のどこかで客観視している自分がいて、この昇進に関してもまだ他人事のような気分で観測している。昇給がある喜びも責務の増量による不安で帳消し。思うことがあるような無いような、このまとまりのない文章そのものが今の心境であるように思う。
スマホアプリでMicrosoftが開発元のソリティアを見つけてからは、暇な時間はもっぱらソリティアをしている。嫁にその姿を見られ、嫁も始めてからは夫婦揃って黙々とソリティアをする時間もできた。ソリティアは整頓をするゲームだと思っていて、それは自分の性格に合っているように感じた。今だって目の前に並べられた結婚式、家事、家計、仕事のカードを整頓している。こんな作業は死ぬまで続くし、ハートスペードの類は4種類じゃきっと足りなくなるだろう。死ぬまで続く話で文章を締めていくくだりをここ数回の日記で多用している気がするけれど気にしない。それすらきっと死ぬまで続く。

2019.02.13

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ここ数年間の冬はいつも同じストーリーをなぞっていて、雪の降らないクリスマスを過ごしたら溜め込んでいた雪を吐き出す空、除雪を憂鬱に思う年末、師走どころではない忙しさに記憶が飛ぶ正月。正月らしさを感じるために昨年買ったたこ焼き屋の福袋を思い出しながら、今年はマクドナルドの福袋を買った。どちらも出した金額と同じだけの商品券が入っている。原資を取り戻せるものでないと手が伸びないケチなところが出ていると思う。ケチぶりを発揮している反面、年末に嫁が事故を起こして車を壊してしまったので思い切って新車に買い換える決断を下すなど、出すところはちゃんと出した。そして早くも2月は半ばに差し掛かり、今はとりあえず腰を落ち着けるべく入った大阪某所のスターバックスでこれを書いてる。久方ぶりのひとり旅。何かに傾倒しているオタクみたいな気質ではないけれど陽キャ体質でもないので、一人でいると静かに心が沈んでいく感じがある。そこに寂しさや悲しさはなくて、ただ自己が今の自分と同じ気だるい表情でこちらを見返している。夜行バスで12時間揺られた結果、今は目が霞んでいつもより遠くが見えなくなっている。肉体は疲れていても、日常から離れている事、離れられる事自体は幸せな事なのかもしれない。
旅先では簡単なアテだけつけて、ただ歩き回る観光をしている。積極的に人に話しかけたり、人気の観光地を見たいという気持ちもそんなにない。何しに来たの、という問いに、知らない土地の空気や街並みを肌で感じて見て回りたい、という回答が先方の欲する答えとして承認されるのかはわからない。人生の実績を解除して、画面の左上にブロンズのトロフィーが出る人生だったらもう少しわかりやすいか。朝方の道頓堀のストリートはゴミが散らかっていて、それは往来を人が埋めれば見えない景色で、その状態しか観光情報では見せられないことを知る。綺麗ごとの裏どりをすることは子供から大人へ変わることの変遷にも似ている。旅は続く。もう数年、数十年。