喪服日誌

唐揚げだけが人生だ。/@yuki_mofk

2016.12.09

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その昔、大学の先輩が男性性と女性性のことを話してくれたことが頭の中に残ってて、その話を聞いてから自分の中の女性的な性格を肯定できるようになったとか、でもその少し前から女子力という言葉が世に出てきて、でもそれも小難しく話せば結局女性性の話なのかなとか、そういう他人からしたらどうでもいいことがたまに浮かんでは消える。自分のことに思いを巡らせる時間が一日のうちでどれだけあるのかは当然人それぞれ違うし、時間がないどころかそもそも関心がない人もいるのだと思う。他者比較ができないからなんとも言えないけれど私はそれに割く時間が長いんだと思う。ちなみにそれはナルシシズムだとか自己愛のせいではなく、むしろ劣等感のせいでそうなっている。結局なんの話ですかと問われれば自分語りであるのだが、ファークライというゲームをしながらブラックニッカの瓶をラッパ飲みしながら書いている日記なので許してほしい。そう、私は劣等感が強い。昔から不器用だし、不細工だし、服のセンスもなかった。頭も悪いし、運動は平均レベルでしかないし、子供の頃の性格は短気で独善的だったからもうクズでしかなかった。でもある時から自分よりたちの悪い人間を見て「こうならないようにしよう」と思ったり、小学2年生のある時に唐突に地元の方言を捨ててみたり、本をたらふく読んで読み書きに強くなったり、思い返せば自分の悪いところをどんどん埋めていくような人生だった。自分がイライラしているときに年下の近所の子供に八つ当たりしたこととか、夏の日没の遅い日に河原で遊んで夕方だからと帰ってみたら19時を過ぎていてこっぴどく怒られたこととか、子供の頃の失敗は今でも覚えている。中学生は思春期真っ只中だったからその頃から外見のことに意識が向いて、まず真っ先に体毛を剃った。高校になってはじめての彼女ができてからファッションが進歩した。とか、そういういろんな経験を重ねて今になってようやく見た目も中身もある程度の評価をもらえるようになったから、言い換えれば曲がりなりにも努力であるから、ナメられたり低い評価を受けることはむかつくしぶっ殺すぞとも思う。自尊心が高くなった、という訳ではなく、それは不当な評価であると思うから。例えば、筋トレを重ねて腹筋背筋バキバキになってるけど服を着込むと外見からは分からない、という状態の人を、何も知らない人がもやしっ子呼ばわりしたらそりゃ次の瞬間には拳が飛んできますよねという話。人生はずっと勉強の毎日だとつい先日大学の恩師が話していたけれど、これからも私はまだ見ぬ自分の穴を埋めるべくいろんな経験をしていくんだろうなと思う。そしてそのたびに自分という存在を反芻し、ダメな奴だと見下し、平均以上を目指して何かしらを磨いていくのだと思う。目の前のテレビ画面では晴天のヒマラヤ山脈で多くの人々が死んでいる。新しい武器をアンロックするために猛獣を駆逐したり暗殺をしたり目まぐるしい。次の武器を、進展を、そして何かしらのゴールに向けて、という点では今の毎日も似たようなものだ。

2016.11.28

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冬の風は肉を透過して芯を冷やす。気付けば12月も間近で、雪こそ降らないものの、目に映る全てのものはどんどん冷えていった。冬タイヤを買って車に履かせて、ワイパーを取り替えて、部屋にストーブを運んだ。朝には近所の畑に霜が降りていて、朝日が照らす時には宝石のように光を反射した。車で畑道の傍を走ったとき、そういう風景のあるこの季節はなんと素晴らしいんだろう、と感慨に浸った。枯葉が草原を彩り、林檎畑が一面に広がるこの景色は、きっとここだけのものなのだろうと思った。先日、関東で降雪があって、ぼた雪からみぞれ混じりのものまで、いろんな形の氷が落ちてきたと聞いた。動画で埼玉の地を大粒の雪が埋め尽くしている景色を見た時に、あぁ、僕の知らない冬の景色がきっと人の数だけあるのだろうな、と、当たり前のことを考えた。僕は僕の知る冬の景色をみんなに見せたいと思うし、みんなの見る冬の景色のことを知りたいとも思った。それからすぐに趣味が写真を撮ることであることを思い出した。 また近日中に写真を撮りに出かけよう。

久しぶりに走ったら右膝に違和感を感じて、痛みに変わり、やがて両足の裏に痛みがきて、ついに走れなくなった。こんな痛み方は初めてで、最後は銃で撃たれたかのような足取りで歩いて帰った。筋肉が衰えてしまったのか、単に足を庇って走った結果痛めてしまったのかわからないけれど、歩いたり走ったりできなくなるというのは日常生活においてかなりの負担であった。杖か車椅子が欲しいと初めて考えた。小学生の頃、バリアフリーについての学習で老人や体の不自由な人の体の動きを体験するような授業があったことを思い出した。軍手を2重に嵌めて細かい作業をするとか、実際に車椅子に乗ってみるような内容で、今自分は足腰を痛めて歩くのもままならない高齢者の疑似体験をしている、と思うことにした。なんとも不自由だった。腰から上は元気であることが殊更に気を滅入らせた。気持ちが走れ!と号令を送っても、足は全然動いてくれないし、持ち上げた脚にかかる重力がとてつもなく増えているような気がした。両足の裏に車輪がついていたら楽になるだろうか、とも思ったが、それをコントロールする筋肉すらも傷んでいる今、快適に動ける自身がなかった。車椅子は幅を取るし段差に弱いから、もっとスマートな形のものが発明されて欲しいと思う。

 

2016.11.15

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 日記の体裁を留めるには短かったので思いついたことをぶつぶつ言う記事。

 

目が覚めたら夜中の1時で、夕飯を済ませて部屋でお酒を飲みながらのびのび過ごしていたらいつの間にか眠ったらしい。こういう時は大変だ。夜間しっかり寝る為の眠気が奪い取られてしまって、再び眠ろうとしても一向に眠れない。こういう時が今年に入ってから何度もあって、最近では再び寝付くのに2時間はかかることがわかったので開き直って起きるようにしている。眼球が乾くし、お腹は減ってたりするし、新聞配達のバイクと夜明けの白んでいく空は憂鬱。

 

もう恋はいいから結婚がしたいんですよ結婚がァ。いいですか。僕はここのところ毎日どこかしらで結婚について考えてるんですけど、僕の結婚観というのが最近どんどん具体的になってきてて、結局のところ今時特別秀でた能力が必要でない仕事に就いている限りは所得は平凡であるし、それで将来の住まいや未来の我が子のことを考えるのはとてもつらいし、ともなれば結婚をしても共働きになることは明らかであるから、所得の少ない者同士はじめから結束して将来の大きな目標に向かって貯蓄だの人生設計だのをした方が建設的じゃないですか、という話なのである。恋は見た目がどうとか性格がどうとかでいくらでもくっつけるけど、結婚との大きな違いは生計を共にするか否かで、それは光熱費やら食費の他にもそういう将来的な予算まで見込んだもの。そこまでを恋愛関係の中で背負い込もうと思える人は、そうすることで相手に好感を与えられると勘違いしているか、よっぽど経済的に恵まれているのだと思う。だからそんな中でも節制の意識があって生活についてより前向きに現状を良くしたいという向上心がある人が好きだし、結婚する人に条件を設けるとしたらそこだ。ここまでガチガチに書くとなんともロマンのない結婚だと思うだろうが、そこは承知の上で、でもこういう価値観を共有した上でお付き合いした方が互いの為に有意義では?と思ったりする。何しろ、生活は死ぬまで続くのだから。反面、死ぬまでの期間ずっと一緒にいるんだから、ちょっとした事に一喜一憂したり、ふとした瞬間に相手の良さを見つけられたら、それでいいじゃないかと思う。家に帰ったら待ってる人がいてくれてたり、ご飯の感想を言い合える人がいるだけで幸せなんだけどな。

 

前々からピザポテトをおいしいと思ったことがない。ピザの味付けのポテトチップスなんて絶対おいしいはずなのに、と思いながら先日プリングルスのピザ味を見つけて食べてみたら激ウマでした。プリングルスは別格だから…。

 

2016.10.17

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衣替えをしようと収納棚の奥に腕を突っ込んでみたら、自分が把握する以上に暖かな衣類が次から次へと湧いて出てきて、1分ほどで衣類の山を築いて途方に暮れたところで衣替えは終わった。秋どころか冬にも近いのだろうか、夜に吐く息は白く霞んだ。吐く息が白くなることは前の日記にも書いたっけな、でもそれを人に伝えたくなるのは、到来する季節のことを喜んでいる自分がどこかにいるからで、もしかしたら前世は霜柱かなにかだったのかもしれない。今は電車に運ばれ、さらに一時間後には夜行バスに運ばれ東京へ至る、そんな道中にこれを書いている。飲み水でも買おうかと立ち寄ったスーパーで、ふと東京で出会う人へお土産を買っていこうと思い立って山形らしい土産物を探した。真っ先に見つけたのは、おしどりミルクケーキだった。おしどりミルクケーキをご存知だろうか。ミルクケーキといえばケーキという名前からして柔らかくふわふわとしたスポンジの食感を想起させがちだが、実際は真逆である。硬く、甘い板状の棒である。おしどりは山形の県鳥であるので、山形土産として名を挙げようという姿勢が見て取れる。テレビCMなどは山形県民なら一度は目にした事があると思うが、2000年代に産まれた子供たちはもしかしたら見た事がないのかもしれない。「山形土産におしどりミルクケーキ」、とCMソングでそのままのことを歌っている。味もミルク味以外にラフランス、さくらんぼといった山形県産ならではのラインナップを加えたりと、とにかくアイムスーベニアの主張が激しい。で、ここまで王道を貫くこの山形土産を買ったかと言えば、それは否だ。なぜか?硬くておいしくないからだ。少なくとも、僕はそう思うからだ。もちろん好んで買う人もいるが、僕自身がそうでないと思うのだからそんなものを人に勧められるだろうか、そんな訳がない。だから別のものを手にしてカバンに詰めた。さて、電車は着いたが、あなたたちの元へはもうちょっとかかりますよ。

2016.10.09

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ここ数日の間で仕事がうまくいかなかったり、体調を崩したり、中旬に実行を企てている旅行の内容を考えたり、阿蘇山が噴火したり、過労で若い人が死んだりした。死んだ人のことについて色々自分の考えを話したがる人たちがインターネットでブツブツ言ってるのをよく見る。どこかから流れてきた情報と状況を並べていくらうだうだ考えても当事者の立場と精神になんて近付けないし、結局似たような境遇に自分が立ったり、身近な人が陥った時に自分が取る行動とその結果が全てなんだと思う。人がつらそうにしてて気にかけることって、そんなに頭使うものかね。配慮とか責任とか色々話すとキリないんだけど、ごちゃごちゃうるせぇなと思う。前職時代、はじめて仕事が深刻につらい思った時に当時の恋人が偶然家に泊まりに来たんだけど、ただそれだけのことが涙が出るほど嬉しかったんです。直接の問題の解決なんて当事者以外の人が出来る方が少ないんだから、助けたいと思ってる人も別に重く考えなきゃいい。LINEとかで一言ポンと話すだけでいいんだから。この話終わり。外気はすっかり冷えていて、夜分に家の外に出たら吐く息が微かに形を纏った。誰かがオリオン座が見えたと言っていた気がする。半袖を仕舞うのはもう少し先にしようかと先月末に考えたけど、やはりもう仕舞い込んでもよさそうだ。扇風機もあと半年お眠りだ。近所の河川敷は芋を煮込む人々で賑わってて、通行人の多い時間帯の京都の鴨川によく似ているなと思った。

2016.10.04

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橙の色をした小さな花が路地に敷き詰められた煉瓦の隙間に溜まっていて、見上げれば金木犀の木がそこにあった。早いもので、もう花を付けた木は少なかった。いつものことだろう、と僕は気に留めていなかったが、世間は台風の上陸と接近にやきもきして騒がしかった。そんなことより季節の到来と経過を知らせる花の散り際とその香りの薄らぎが気になった。当たり前のことだが、いい匂いというのはいいものだ。前に日記に少しだけ書いた香水が今はすっかりお気に入りだ。ジャスミンの花の香りだというが僕はピンと来なくて、ジャスミンのイメージといえばジャスミン茶でしかなかった己の認識の浅さを恥じた。ジャスミンの香りは金木犀と少し似ていて、甘い。これを日々纏えるのはとても良いことだ。何故ならいい匂いというのはいいものだから。今まで香水に興味がなかったのは、今まで気に入った匂いと出会わなかったことと、匂いを纏うことにそれほど価値を見出さなかったからだ。だが考えてほしい。これまでの人生の中で、「いい匂いのする人」は確かにいたはずだ。匂いの正体はいろいろある。香水、柔軟剤、車の芳香剤、お香、家の匂い、そもそもの体臭。体臭といえば、何年か前に食べるだけで体からバラの匂いがするガムというものが販売されていたはずだが、特に匂いの種類の派生もなく市場から消えたのは、単に人気がなかったのか、効果が微妙だったのか。ともあれ、ワンプッシュの霧を体に付着させるだけでいい匂いのする人間になれるということは何ともお手軽に自分の価値を上げる手段であることか、と思う。そして実際にやってみれば、他人に対してよりも自分の為に香りを纏うのだ、ということも分かってくる。リラックス効果があることが明確にわかる。国内外のプロサッカー選手が出場前に香水やコロンをつけて試合の合間にその匂いで心を落ち着かせる、という話がよく理解できる。ともあれ、やり過ぎが良くないのはどの話も一緒。今日は昼前に起きて肉を食べて歌を歌ったらもう夕方で、明日も早いのでさっさと寝ます。

2016.09.26

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遠くのものを見るのに目を凝らす、という行動を意識的にする自分に気付いたのが何日か前の話。遠くにあるものは、今までは視線を向ければ見えることが常であった。だから、「目を凝らさなければ見えない」ことに気付いたのが驚きで、衝撃だった。前職時代に一年勤めただけで視力がぐっと下がってしまった時点である程度の諦めもあったのだが、どうも僕の目は順調に曇り始めているらしい。今や身の回りには眼鏡やコンタクトを入れていない人間の方が少ないように思える。液晶画面を毎日毎日飽きもせず覗く習慣が組み込まれてからというもの、人間(少なくとも日本人)の平均的な視力も落ちていっているのだろう。種の何とやらという話。視力が退化してやがて目そのものがなくなり、他の感覚が発達した諸々の生き物のことを考える。でも人間の場合はそうはならず、あくまで外部のプロダクトありきの退化の仕方をするのだろうな、と思った。機械と肉体が入り混じるゲームや映画のキャラクターような体になってしまうのかもしれない。仮にそんな退化をするとしたら何世代か後の子孫たちの話になるだろうから、未来の命のことを不憫に思った。
月末の週末は仕事が忙しくて久しぶりに帰りが遅くなった。毎晩やるゲームは楽しいけれど日常のマンネリ化から脱却せねばと思ったので、勤務中に車屋と美容室に電話をかけてそれぞれ点検とパーマの予定を入れた。9月は特に遠出や大出費のイベントがなかった為か、口座の残高は少しばかり数字が増えていた。だからという訳ではないけれど10月には連休をもらえるよう交渉したので、またどこかへ旅に出ようと思います。きっと、たぶん、君の街まで。