喪服日誌

唐揚げだけが人生だ。/@yuki_mofk

2016.09.22

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前に書いた日記は本来思っていたことと別の着地の仕方をしてしまったので改めて書いておくのですが、知らないことが多いということは知る喜びに出会う機会も多いということなので、そりゃリスクもありますけどそういった出会いや選択というのは人生を楽しくさせますよ、いいですよね、みたいな話です。端折り過ぎてる感じはありますが気にしません。最近は労働の合間にゲームと睡眠と食事を挟んだ1日が連続していて、良くも悪くもそれだけなので淡々と日々が過ぎている。もう今月も下旬に差し掛かっていることに驚きを隠せないという旨の話を毎月していると思うけど、やはり今回もそう思った。海に行く予定がまさかの頓挫で心で泣いた。日を追うごとに部屋が汚くなっていくので次の休日には片付けようと思う。気温が下がって長袖に腕を通したら、心地よさに安堵した。秋服が好きだ。春に着る服も秋服で賄えちゃうから。みんなが桃、鶯、水色のような春らしい装いをしている時に枯れ葉のような色合いの服を着ている僕を見たら、そういうことだと思ってほしい。
先日は、ネット通販で頼んだワカナミ堂の新聞が届いたので腹筋を鍛えながら読みました。もっとこういう外界からの刺激を浴びて、今の自分の心のつらい部分を救いたいと思いました。現実でつらいことがひとつ起こったら、10の幸せで希釈しないと心が保たないから。仕事や対人のストレス耐性は鋼の強度なのにまだまだ自分の心には柔らかく傷つきやすい部分があるようで、それが何とももどかしいし、悪い意味で人間くさくてやだなと思う。でも客観的に見たらかわいいものなのだろうな。

2016.09.18

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残暑という言葉があるが、暑さが一体どこに残されているのかは今だ解明されていない。わからないまま秋雨前線というものがやってきて、雨で地表を冷やして秋の用意を始める。数日前まで掛け布団を出すにはまだ早いなどと思っていたのに、窓から吹く風が冷たかったから、薄手のふわふわとした布団に身を包むことにした。ここ数日睡眠が浅い日が続いていて、脳が完全に機能していない、もやがかかったような気持ちで日々を生きた。こうして画面に向かって文字を打つことは心から湧く言葉をそのまま送り込んでいるような感覚があるので何も苦にならないのだけど、声に出そうと思うと肉体の存在をひどく意識してしまって、なかなか思うようにいかない。疲労や気分の浮き沈みによって思う通りの言葉がなかなか口から出なくなる。心では飛び跳ねて喜ぶようなことでも、体はぎこちなく笑顔を作る程度になってしまったり、これはとてももったいないことだと思う。誰しもそうであると思うし、心と体の差異をなくせばいいかというとそれが最適解ではないだろうからなんともできない。わからない。わからないことだらけのものに囲まれて生きているのだなと思う。近所の細道の行き先も、名前ばかりよく聞くかの地のことも、天気のことも、好きな人の振り向かせ方も、これからの身の振り方も。最近はいろんなきっかけでいろんな人と出会うようになって、自分と違う道を選んだ人のその後とか、僕が知らないことを知っていることとか、それぞれの人生経験の集積のかけらを時折垣間見たりする。自分も他人に対して何かを見せたり聞かせられる人になっているだろうか。年を取って見た目のステータスが落ちる一方なので、それ以外の部分を磨くとしたら、年収と教養と技術。でもそんな言葉にまとめたら楽しくないから。つらいことが多くあったとしても、それでも楽しかったと笑って死にたいよ。

2016.09.16

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曇りのない青が上空を覆っている時は陽射しの暑さを恨めしく思うのと反対に、冷たい夜の風が吹くときは空は不恰好な灰色を浮かべている。雲のない夜空を最近見ていない。数日先の天候が気になる時ほど空は晴れてくれないもので、手持ち無沙汰の僕は慣れない香水を腕なんかに塗りつけながら空を仰いでいる。駅と連結した商業施設の屋上には庭園があって、都心にも関わらず水音と鈴虫の鳴き声が聞こえる癒しスポットになっていた。こういう場所は異性と二人で来るといい雰囲気になりそうだ、と思ったが、思惑に反してそういった人はいなかったし、僕は一人だった。屋上に吹く風は心地良くて、その気になれば風に吹かれていつまでもそこに居れるようであった。でも程なくして警備員が閉館を告げに来たので、腰掛けていたベンチから立ち上がる。こんな事を言うと中学二年の男子生徒のようだが、風が好きだ。天気を気にする理由は数日後に海に行く用事があるからなのだが、海にしても、目的は塩水に浸かることではない。日本海から吹きつける荒々しい潮風を全身に浴びることが楽しみなのだ。街中にしても、田舎の細道にしても、風が運ぶ温度や匂いに心が動く。花の匂いで心踊らせることも、慣れ親しんだ故郷の温度で心穏やかにすることも、風は知っている。風は自然現象のひとつで匂いの元なんていくらでも原因を究明できるし、その風で何か天啓が降りるかといえばそんな事はない。だが、黙っていれば心の内から湧き出る日常の雑念を一掃してくれるような、そんな作用が風にはある。そんな理由で、ただ風に吹かれるだけの無駄な時間が好きだ。「何もしない」ことが無駄であるかどうかは本人や場合によって変わってくる。僕はそういう無駄でない無駄な時間が好きだ。今は海と金木犀の香りが待ち遠しい。

2016.09.05

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当たり障りのない近況。気付いたら蝉の鳴き声が鈴虫の声に変わっていた。それがあまりにも前触れなく変わったものだから、今年の夏はずいぶん急ぎ足で過ぎてしまったものだなと思うと同時に、少し淋しくなった。それを追いかけるように台風が列島を撫で回して、しかしその最中はお店の中で携帯電話を売ったりして過ごしていたので、それもよその国の出来事のように淡々と過ぎていった。結局今年の夏は海に行かなかった(江ノ島の海には行ったし船にも乗ったけど、僕のイメージする「海に行く」はもっと荒涼とした砂浜で荒々しい潮風に揉まれることを指す)ので、むしろ気温の落ち着いた時期に行くのも悪くないなと思った。夏の間にやり残したことはいくつかあるけれど、まだ間に合ううちに回収が見込めるから特に不満はない。人と遊びたいし、秋の服を着たいし、写真を撮りたいし、遠いところへ行ってみたい。それら全てが実現可能な枠の中に収まっているということは、なんだか幸せな事のように思えた。
とある用事で青森にいて、近くの席に乗り合わせたおばあちゃんのグループの会話に耳馴染みがあって、よくよく聞けば秋田の方言だった。今年の夏は暑かった、という旨のことを70も過ぎたであろう人々が口走っているのだから、自分も例外ではなくそうなるのだろう。青森は自分の中のイメージより海に近くて、潮風は程よく冷えていて汗ばんだ肌に心地よかった。これで福島より北の道県には全て行ったことになるので、今度旅行に行く時には西に行こうかな、といつ実現するのかわからない人生の指標がまたひとつ増えた。

2016.08.26

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ひと月ぶりの反動で日記がとても長くなった。

 

眠らない街が眠らないのには理由があって、その渦中に飛び込んでみたらやはり自分も眠ることを忘れた話。8月に入ってからお盆休みという概念が今の会社にないことに気付いて、いざまとまった休みがあったかと思えば特に用事もなかったので、久しく顔を出していなかったかつての馴染みのバーに行くことにした。飽くなき飲食と人の出会いと、取り損ねた夏の思い出の補填をすべく花火や怪談などを行っていたら、夜が明けた。人と場所が変われば取れる行動の選択肢が変わってきて、あれもこれもしたいという欲求がどんどん湧いてくる。特に用事がなかった人間が、隣県のバーに顔を出すだけで夜を徹して行動するのだから、そういう”選択肢”を増やすことは生活の充実に直結するのだなと思う。育った土地で穏やかに過ごす事を夢見ていたけれど、果たしてそれは本当に正しい選択なのだろうか?と最近思うようになったけど、どんなきっかけで選択肢が増えるかはわからないのだから(例えば街が賑やかになったり、身近に知り合いがぐっと増えたりすると状況は変わる)この疑問に正解はないのだろうと思う。ただ、手っ取り早く生活を充実させたいのなら場所を変えるのはいい手段である。他人に何かを期待する時は不確定要素が多いので、うまく事が運べるよう事前に予定を立てたり合意形成をしなければならないけれど、それが面倒くさいよねーーーーという話。折衝は駆け引きせずにイエスかノーで帰結したらいいんですけど、僕たちはいつからこんなに面倒くさい生き物に育ってしまったの。

仕事と考え方の話。最近職場で営業の適性を測られて、自分は感覚で接し方を切り替えて提案の仕方を変える感覚派のタイプ(天才タイプらしい)だったんだけど、内省してみると日頃の行いにもそれが表れてて、なるほどな〜〜と思った。これは言い換えれば、目の前にお客さんが現れた時に、普段通り万遍なく提案するのか、おっこの人はこれ買いそうだな??これ買わなそうだな??と判断して他の提案に切り替えるのか、というやり方、あなたはどっち?という話。万遍なく提案している方が数撃ちゃ当たるので獲得件数が多いけど、感覚で初めから提案の取捨選択ができれば獲得の可能性の高いものに時間を割いて提案できるからこちらも手堅く数字が取れる、という、どちらが良いかという話ではなくあくまでタイプ分けの話。そして僕は、つくづく感覚というものに頼り切った生き方をしてきたんだなと近頃よく実感するようになったのである。
例えば、僕はよく写真を撮り、それが評価されることがあるけれど、プロから素人まで、評価されるのは感覚が具現化した部分だ。色合いや構図、キャプションの付け方まで、僕の中には決定のロジックがない。自分の思うままに良いと思うものを作り、理由付けは後から行う。自分ひとりで楽しむ分には理由なんていらないのだけれど、他人と関わるとそういった部分で決定の理由を訊ねられるから、そこで受け答えができるようにしておかないと会話ができないので、理由付けはある意味感覚の翻訳とも言える。
もっと言えば、僕は国語がめちゃくちゃ得意で、数学が苦手だった。筆者の意図や文の読解は感覚で理解できるが、数式は感覚では解けない、ということだ。感覚のみで何十年と生きてきたことは危ない事のように思えるけど、その分研ぎ澄まされたものもあるのかな。ないなら人生やり直すけれども。

2016.07.28

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東京に来ると原宿と表参道には必ず足を運んで安い服とタリーズのコーヒーを飲む。もうそういう習慣になってきた。雨の降る東京は湿気で肌がべたついてボディシートが何枚もそれを拭っては役目を終えた。宿を貸してくれる高校時代の友人と神保町で会って、中華料理を食べて帰った。うわ言のような言葉を交わし合って就寝。翌朝、博物館に行こうと思い立ち両国に向かう。両国といえば国技館であることは田舎者の耳にも通じる常識であり、また国技館といえば相撲を行う場所であることもまたよく知られていた。しかし相撲に疎い僕の心はスモウレスラーの聖地とはなかなか馴染むことができなかった。横網町を横綱と見間違えて、横綱町なのに横綱おらんやんけ!!!!!!と素っ頓狂な声をあげた(ネットで)ものだ。町を力士が闊歩する訳でもなかったし、朝からちゃんこ鍋が食べれる訳でもなかったのでサンマルクでパンとコーヒーを飲んだ。サンマルクのフレンチトーストが劇的にうまいという気付きを得た。その後博物館で江戸の町と数多の妖怪を眺めて満足し、秋葉原へ飛んだ。秋葉原では電子機器やジャンク品を見て回り、うまい寿司を食い、町を歩いたのちにビールを飲んだ。冷えたビールは脳にいい。連れ立った娘はいつ見ても自慢の娘。鳩との親和性が高い。夜は新宿で洋食と洋酒を樽のテーブルの上で飲んだ。ワンピースでよく見る、取っ手のついた小樽で酒を飲みたいけれどどこで売っているのだろうという話をした。あと家庭菜園の話。23時過ぎに解散して帰りのバスを待ち、乗り、山形に戻ってきて、帰りの電車に乗りながらこれを書いてる。各駅停車で時折開閉する電車の扉からは草木と靄の匂いがして、あぁ帰ってきたのだなという実感。とやかく言ったけど、旅はいいぞ。旅の話おわり。

2016.07.26

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朝6時から駅のホームでは何かに憤っている老人の怒号が飛んでいて、活気のある町であることは明らかであるなと思った。5年ぶりに来た横浜は空が澱んでいて、電車の料金表を見たら真っ先に飛び込んできたのは山手線の緑の円だったので、東京都内の知らない駅に放り出されたような錯覚があった。横浜は中華街の顔しか知らなくて、歩道橋の下にコロニーを築くホームレスの姿や迷い込んだ地下道の独特の雰囲気は却って新鮮だった。乗換案内というアプリは本当に便利で、こんなに遠方にホイホイ気兼ねなく旅に出れるのもこの案内があってこそだ。それまで知らない土地の電車の類は恐怖の対象であった。平成に生まれてよかった。ちなみに知らない土地のバスには今だに不安で乗れない。異邦人とは外国人を指す言葉だけど、勝手のわからない土地に飛び込めば似たような立場に陥る。その土地の生活に馴染んでいる人からしたらなんの違和感もないが、知らない人間が出くわすと途端に困惑するようなものがいくつもあって(電車の仕組みとか方言とか食べ物の食べ方とか)、地域性というのは面白いなと思う。江ノ島に行った。島とはいえ陸続きなのだが、確かに少し異質な島民の暮らしがそこにはあって、僕は異邦人となり得た。10時半頃に開店していた店にふらりと入って、ぶつ切りの刺身と釜揚げのしらすが乗ったご飯を食べた。ビールも飲んだ。ビールの産地は新潟であったが、新潟県民が江ノ島という概念をビールに落とし込もうと見えない努力をしたのだろうからこれは江ノ島のビールなのだと思って飲んだ。産地のことについて考えたのはこのビールに限った話ではない(おいしい干物屋の安い干物は全て外国産だった、とか)けど、どこから産まれたものだろうがその場所で思い出に残ったらその場所のものとして記憶するから、そういう意味では産地にこだわることになんの意味もないんだな。くどくど書いているけれど、日記という形で冷静な視点で文に起こすから小難しいのであって、体感している時は何も考えていないので、僕と行動を共にする人は「あぁこいつはビールひとつ飲むのにごちゃごちゃと考えているのだな」とは思わないように。とにかく、今はそんな旅をしています。続く。