喪服日誌

唐揚げだけが人生だ。/@yuki_mofk

2016.05.01

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4月は半ばあたりからあまり日記をつけていなかったように思う。日々何かしらやる事ができてしまったので、下手したら前職+1人暮らしの時の方が余暇が(日記をひとつ書けるような無駄な隙間が)多かったのかもしれない。残業は許容範囲だし、ちゃんと休憩も取れるし(前職に休憩という概念がなかった)、営業という仕事自体も、扱う商品の価格が下がった分提案し易くて売れる・売れないがテンポ良くわかっていくし、前職より「営業してる」感があって楽しい。人間関係もいい。店長は人格者で無駄がなく、先輩社員は歳が近いから距離感も程よい。転職は成功だと実感。この前の日記から何かが変わったかといえば、そういう仕事に対する認識が深まったこと、それにつれ出来ることも日々増えてきたこと、口内炎がふたつできたこと、髪を切ったこと、龍が如く5ファンタシースターオンライン2を始めたことが挙げられる。世間はゴールデンウィークだというけれどサービス業は勿論稼働するし、恋人は僕の想像以上に激務らしく休みがあるのかもわからない。再来週に三連休が頂けるらしいので、これはどこかに旅に出よという思し召しだろうと考えているので行く先を探しているところ。休暇だとか、世の中の動きとずれた日々を送ることは3年目にしてようやく慣れてきたけれど、同時に世の中にはそういう人が山ほどいて、今までそういう休暇中に立ち寄ったお店の人たちはそういう人たちで、という当たり前の事実に思いを馳せ、形のない何かに感謝したくなる。前にも書いたけど、世の中のあらゆる物は誰かの仕事で出来ているんだなぁというあの気持ち。あ、そういや転職にあたって毎日の運動量が激減した結果体重が過去最高値を更新したので5月は減量強化月間です。以上近況報告おわり。

2016.04.20

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久しぶりに実家で料理を任されてキッチンに立った時、火元の換気扇のスイッチが結構高い位置にある事に気付いた。今だに前住んでいた部屋の感覚が体に残っているようで、そんなスイッチの位置ひとつを取っても体が戸惑うことがあるなんて、それも小学生の頃から過ごしてきたこの家で、と思うと変な気持ちだった。アメリカ産の安い豚肉を買うことばかりしていたのに実家に戻れば庄内豚という県産の質の高い豚肉を手渡されるのだからそういう金銭(というより貧乏性)感覚も揺らぐ。シャワーの勢いと一度に肌に触れる面積だとか、階段の段差だとか、もう引き払ってからひと月経とうというのにそんな事を思うのだから、生活というのは奥深い。外出先で買い物をする時、パッケージや値段を見て即決できるくらいの物から1時間、1日と時間をかけて購入を検討する物まで色々あると思うけど、そうして持ち帰ったもの全てが身の回りを固めるのだ。「生活」を振り返ることは、そうしたもののひとつひとつに目を向けて、感じて、価値や現状を確かめることだ。それがどれだけ底の深い行動か、という事を書き並べていこうと思えばそれはもう長々と書ける訳だけど、実生活の肉体はそういう感覚に対してはもっと直感的で、不便なら買い換えるし、不快なら改善するし、それだけだ。何回か今までも日記に書いてきたけど、”そういうこと”は大多数の人にとっては”面倒くさく”、”どうでもいい”ことなので、誰も気にしない。僕だって日記を書く環境と習慣があって、書こうと思わなければ、こうして思ったことは数日経過した後に消えていく定めだったに違いない。こんな思いを救済する為に今までの日記たちがあったのだとしたら、僕のブログは感情の墓標だらけということになる。まぁなんでもいいんですけど、先日寝違えた首がめちゃくちゃ痛くて首と背筋をまっすぐ伸ばす事ができない生活が二日目を迎えた訳なんですが誰か僕を救済してくれ。

2016.04,18

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桜の蕾が膨らんで、開き、風に散っていくまでが前の日記から今までの時間で展開されていったので、時が経つのは早いものだと他人事のような気持ちでそんな桜を見ていた。最近は仕事を覚えては実践を繰り返す日々で、ミスなく仕事がこなせるか戦々恐々としながら臨んでいます。でもなんとか習得して仕事を継続していけてるのは、現場でどんどん問題に直面しては解決していく場数と機会に恵まれているからだと思う。前の仕事と今の仕事を経験して思うことは、どうやら僕は体に覚えさせていくことに長けているのだということ。暗記したり座学の形式で脳に書き込んでいく作業が得意ではなくて、何か動作を伴う作業だと定着しやすいようだ。技術的には事務職寄りの人間なのかと自己評価しつつも(実際に営業職は好ましくないし)現場で体を動かすことも嫌いでないし、仕事を覚える上ではその方が身に合っていることも分かってしまったので、社会人生活を3年続けてもまだまだ働き方なんて分からないものだなと思った。もしこの文章を読んでいる人でまだ就活を続けていたり新社会人の人がいたら、余程のブラックでない限りは仕事観をたかだか数ヶ月で決めてしまうのはもったいないですよとお伝えしておきます。そう、この前は休みの日に花見に行ってきました。地元の桜の名所はやはり期待を裏切らずかの花が咲き誇っており、変な横道に逸れて歩いていったら勾配のすごい山道に出て、頑張って登ったら寺に出たりと冒険もしました。24にもなって道なき道を歩きそれを冒険と呼ぶことに何となく背徳感を覚えましたが、気にしないことにします。そんな事より、そんなお花見に同行者がおらずたった一人で寒風に吹かれながら敢行していたことが気になります。

2016.04.06

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人や場所、機会とどうやって巡り会うかというのは自分が思うように創出できる場合の方が実は少なくて、大抵は偶発的な状況や心境のままで邂逅することが多い。初めて顔を合わせたのに妙に馬が合って話が弾んだ知らない人や、たまたま通りがかって思わず足を止めた場所だとか、そういうものの出会いは狙ってできるものではないという当たり前の話。なぜそんな事を言い出したのかというと、そういう不思議な出会いの事を縁と言うのだろうなと、晴海のビルに入っているスターバックスでチャイラテを飲みながらぼんやりした頭でぼんやり思ったからである。コーヒーでも紅茶でもない気分の時にたまたま目に留まったから飲んでいるけれどチャイはおいしい。前にも書いたようなザ・洞穴のようなカプセルホテルでどこかの穴から聞こえる大きないびきを聞きながら何度も寝ては覚めてを繰り返して、うっすらと感じる睡眠不足と抱えた空腹感をそのままに穴を出てきた。どこかの軽食屋で天むすと唐揚げと梅のおにぎりを食べて、通勤電車にすし詰めになり、参覲交代のようなサラリーマンの行列に組み込まれながら落ち着ける席に腰を下ろした今の自分に心地よい。もし万全の体調で気を引き締めたかったらコーヒーを選んでいたのだろうから、これも縁のひとつなのかもしれない。

上記の文を書いてから約28時間後、月も太陽も回ってメトロも新幹線も乗りに乗って東京を離れ、地元の在来線の座席に座って再び筆を取っている。昨晩、懐かしい顔に会ってきた。人との親交の浅い深いの度合いは一言には表せないもので、それは互いが等しい距離感で相手に接しているのかが正確には測れないから。そういう綱渡りは大抵面倒くさがる人が多いからなるべく避けて勝手の知れた仲間とぬるま湯でじゃぶじゃぶやるのが好きな人は多いように思う。熱かったり冷たかったりする刺激というのは外界からでないともたらされないものだけど、それを得るのは先述の通り面倒くさいものだという話。が、そんな御託をすっ飛ばして外界の扉をガンガン開けていくタイプの人間もいて、昨晩会った大学の後輩はそういう奴だった。特別深く関わってきた仲でもないけど、そんな事は気にせず扉を叩く。それが気持ちよかった。誰かにとっての自分もそうでありたいなと思う。

2016.04.03

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最近日記を書いててまた小難しいことや大それた結論を持ち出すことが増えたように自覚しているけれど、その発端は日常の中の些細でどうでもいい部分から芽を出している話なのだということを書いておきたかった。言葉を重ねる毎に、僕は普通の青年であることを自覚する。本当はそうじゃないのかもしれないけれど、正しい目盛りが刻まれた物差しがどこにあるのか僕は知らない。普通であることに苦悩したり普通であるふりを装ったり、誰しもが通る自意識の変遷も含めて、それは普通なのだ。そんな普通な僕だから、4月からは二度目の社会人生活が始まった。以前の職場の環境や社内の雰囲気とは勝手が違うので当たり前のように困惑し、これは少し時間がかかるなと思って空を仰いだ。花粉と黄砂のせいで晴天にもかかわらず空はもやがかかったように不鮮明で、鼻の奥から滴り落ちようとする鼻水の事を思った。仕事は覚えることが多いけれどそれは前職でも同じことで、なんだかんだと言いながら気づけば身につけていたことだったので、今回もきっとなんだかんだと言いながら気づけば身につけているのだろう。今は研修を受けるべく東京に向かう電車の中でこれを書いている。どこかからお金が転がり込んでこないと新幹線なんて乗らないので、新幹線での移動となると毎回なんてリッチなんだと思う。感覚が貧乏。ちなみに宿泊する宿も銀座近くのカプセルホテル。ただの貧乏。でもいくらこんなケチのような感覚でいても、カプセルホテルをホテルと呼ぶのはどうにも抵抗がある。以前一度だけ利用した時は、壁面一面に並んだ二階建てのほら穴に人が入り込んでいくさまを見て、古代の、洞穴を寝ぐらとしていた古き民の事を思った。いっそそういうコンセプトの宿にしたらいいんじゃないの。夢やロマンが詰め込まれたもので世の中が溢れかえってくれたら日々がもっと楽しいものになると思うのだけど、黒いスーツ一式がキャリーバッグの中を占めているのが残念ながら現実。

2016.03.31

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クローゼットが衣服で溢れ返っていた。働き続ける日々を思えば私服を着る機会の方が少ないはずなのに、今だにその数は増え続けている。着なくなった服は売ればよい、という手段が採れるようになってからは、新陳代謝が促進した。そのひとつひとつを引きずり出して、何と何を合わせて1日を過ごすかを考える。人によっては面倒で、無駄で、どうでもいい作業に見えるだろう。当の本人ですら偶にそう思う。だが増える衣類がそれも悪くないと思っている事を暗示していた。そんな作業が始まると、姿見の傍には取捨選択の末落選した衣類たちで築かれた山が出来上がる。今日は白いシャツに何を重ねて着ようかと悩み、昨年に買った薄手のカーディガンを手に取ってみた。群青色の生地は伸縮性があって、体とシャツをぴったりと上から包んだ。そして姿見の前に立つ。似合わなかった。組み合わせがどうという話ではなく、僕自身にその青色が似合わなくなっていた。鏡に映った顔を見る。先日短く切った髪は僕の顔を白熱灯の下に晒していた。僕は長髪になることを好むのだが、それは男性ホルモンの存在を誇示するような自分の顔が嫌いで、覆い隠したいと思っているからだ。単にそれが髪を切ったことにより露呈していることと、毎朝剃り落とすだけでは隠し切れなくなった髭の跡だとか、皺のことだとか、そういうものーーつまり加齢によるものが見えてきて、爽やかな青色を身に纏うことに違和感を覚えてしまったのだ。人によってはこういう顔も、こういう服装も良しと言う人もいるだろうし完全に主観のコンプレックスの話であることは明らかなのだが、人は些細なことで自身の身に起こった変化を悟ることがある。そうして昔から気に入っていたものだとか、こだわっていた何かを捨てたり、諦めたりするのだと思う。よくわからないフォントで表面を覆っていた英字だらけのTシャツだとか、くたびれるまで遊び倒したぬいぐるみだとか。人からの贈り物だとか、気に入っていた色だとか。ダサいからとかそんな理由じゃない事でこの先色んなものを失っていくのかな、とか色々考えてたら電車が出る時間が迫っていた。山の片付けは帰ってからやろう。

2016.03.30-2

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コートを着るのをやめて外に出てみれば、気温こそ心地よくも一撃でアレルギーを引き起こす花粉を含んだ春風に目をやられた。効き目が出るのが遅い鼻炎薬の効果を待つ間に溢れ出す鼻水をティッシュで拭う。ゴミ箱には大量に積み重なった白い山。どんなに飾りつけて生活を綴ってみてもこの事実は毎年変わらず纏わり付いている。電車の発車時刻が間近に迫っているからと慌てて外に出てみれば、よく見直せばその時間は電車ではなくバスの発車時刻だったし、背負ってきたカバンには財布が入っていなかった。部屋の床に転がった眼鏡を踏みつけて壊してしまった。何をしてもうまくいかない日は忘れた頃にやってくる。めげない、挫けないという気持ちの覚悟はうまくできる人とそうでない人とがいて、できる人にとっては言葉に出さずとも、ある種冷淡に対処して前を向けるから大した問題ではない。できない人は、めそめそとその悲哀を声に出したり文字に起こしたりする。慰めの言葉はいくらでもあるけれど、大抵諦めや振り切った気分にさせてくれるのは時間の経過だ。時間が解決してくれる、なんてアドバイスがあるけれど、それはひどく投げやりで、他人任せで、しかし真理と成り得ることで、そんな言葉を聞く度に僕は小さく困惑してしまう。時間という言葉は言わばカバーで、そこに内包されているものを明確にしない、できない事に困惑の種があるように見える。でもいちいち人はそんな事を紐解いたりはしない。時間はそういった意味で都合がいい。悔やみ切ったり、泣き止んだり、忘れたりする事のその全てを持っている。暴論を言えば、人間の寿命を待つ事さえも解決の手段だ。時間とは大いなるものだ。でも、どう使うのも個人の裁量だ。ただひとつ言える非情なことは、それは立ち止まり続ける事を許さないということ。