喪服日誌

唐揚げだけが人生だ。/@yuki_mofk

2016.03.31

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クローゼットが衣服で溢れ返っていた。働き続ける日々を思えば私服を着る機会の方が少ないはずなのに、今だにその数は増え続けている。着なくなった服は売ればよい、という手段が採れるようになってからは、新陳代謝が促進した。そのひとつひとつを引きずり出して、何と何を合わせて1日を過ごすかを考える。人によっては面倒で、無駄で、どうでもいい作業に見えるだろう。当の本人ですら偶にそう思う。だが増える衣類がそれも悪くないと思っている事を暗示していた。そんな作業が始まると、姿見の傍には取捨選択の末落選した衣類たちで築かれた山が出来上がる。今日は白いシャツに何を重ねて着ようかと悩み、昨年に買った薄手のカーディガンを手に取ってみた。群青色の生地は伸縮性があって、体とシャツをぴったりと上から包んだ。そして姿見の前に立つ。似合わなかった。組み合わせがどうという話ではなく、僕自身にその青色が似合わなくなっていた。鏡に映った顔を見る。先日短く切った髪は僕の顔を白熱灯の下に晒していた。僕は長髪になることを好むのだが、それは男性ホルモンの存在を誇示するような自分の顔が嫌いで、覆い隠したいと思っているからだ。単にそれが髪を切ったことにより露呈していることと、毎朝剃り落とすだけでは隠し切れなくなった髭の跡だとか、皺のことだとか、そういうものーーつまり加齢によるものが見えてきて、爽やかな青色を身に纏うことに違和感を覚えてしまったのだ。人によってはこういう顔も、こういう服装も良しと言う人もいるだろうし完全に主観のコンプレックスの話であることは明らかなのだが、人は些細なことで自身の身に起こった変化を悟ることがある。そうして昔から気に入っていたものだとか、こだわっていた何かを捨てたり、諦めたりするのだと思う。よくわからないフォントで表面を覆っていた英字だらけのTシャツだとか、くたびれるまで遊び倒したぬいぐるみだとか。人からの贈り物だとか、気に入っていた色だとか。ダサいからとかそんな理由じゃない事でこの先色んなものを失っていくのかな、とか色々考えてたら電車が出る時間が迫っていた。山の片付けは帰ってからやろう。