喪服日誌

唐揚げだけが人生だ。/@yuki_mofk

2016.06.13

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遮光カーテンは9時を過ぎても部屋に日光を入れることを許さずそこに居て、寝転んだまま携帯を見たらみんなが雨の話をしていた。今日は雨なのか、ここは雨なのか、それとも遠い場所の話か、と思ってカーテンを開いて、そこでようやく外が雨に濡れていることを知った。世の中のあらゆるものが音もなくしっとりと濡れていく様子は現実味がなくて、雨の降る森のことを思った。かつて何かの機会で山に入った時、空から落ちた雨粒は何度も背の高い木々の葉にぶつかり、大小様々な形で肌に着地してきた。柔らかい土はぼこぼこと身を打たれながら表情を変え、苔むした岩共々生き物のような素振りでそこにいた。標高が高くなると雨は質量を失くして、白い霧として身を包んだ。吸い付くように水が肌に触れて、やがて雫になって服の袖を濡らした。山の天気は変わりやすいという言葉がある。雨が形を変えるように、佇むばかりの草木や岩に命を感じるように、何かを変容させる環境が山の中にはあって、それは化学や理屈で説明がつくロジックがあるのだろうけど、人はそこに神聖さを見出す。大木と対話してみたり、天狗が出てきたり、岩に注連縄を掛けてみたり。仙人という人物が山と仙界以外から現れた話も聞かないし、仙界や天界という世界は決まって雲の上に広がっていたりする。人智を超えたものに触れたければ、山へ登ることが手っ取り早いのかもしれない。ファンタジーの世界に没入するより先に出勤時間が来たので僕が山へ夢を見に行くのはまだ先になりそう。あぁ、東北も今日から梅雨入りしたんですってね。

2016.06.05

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横隔膜、という単語が日常の中でふと出てきた時に、それが体のどこにあるものなのかが思い出せずにインターネットで調べるなどした。人間は取り入れて出す以外は内容物がどうなっているかわからない、マジックボックスに脚が生えたような生き物だから、いちいち採血してそれをガラス板の上に乗せて大がかりなレンズで覗いたりしないと構成してるものが分からなかったりする。その配分がある程度狂うと体調も崩れてしまうし、体温だってちょっと上下に振れるだけで体は大げさに反応するから、「人体のふしぎ」っていう博物館や図鑑でよく見聞きするような言葉を目にする度に、確かにな、と思う。くさい余談を敢えて挟むとすれば、”心”だって変化があれば体調に変化をもたらすのにどこを解剖しても出てこないからやっぱり不思議ですね。体の話おわり。先日、低めのテンションで自宅に戻り届いていた手紙の束を解いたら、ひいさんに年末に送った手紙の返事が半年くらい経ってようやく返ってきたので小躍りした。当時何を綴って送り出したのかはもう覚えていなくて、その当時の気持ちには二度と会えないのだと思うと、手紙というのはなんと儚いツールなのだろうと思う。メールじゃ当たり前だけど「送信済みボックス」なんて手紙に置き換えれば本来存在のありえない架空のツールであって、そういう非現実的なものがいつの間にかしれっと現実に居座っているのが面白くもあり、不思議でもあり、少し怖くもある。こんな些細なことをいちいち手紙に書いていたら紙が足りなくなるので、やはり僕には手紙とは別にこういう場所が必要だということ。手紙自体は好きですよ。あなたもどうですか。

2016.06.04

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数年経って仕事が変わるとか、住む所が変わるとか、学生だった頃は結構大事のような気がしていたけど、今身の回りの人々(自分も含めて)の現状を見るとそんな事は普通にコロコロ移り変わっていて、そういうものなのだなと認識を改めているところ。結婚だとか子供が産まれたとか、「身を固める」という言葉はその意味合い以上に物理的なものなのだと思う。目先のものに追われているとあっという間に歳を取るし、いたずらに歳を重ねることに意味はないから、やはり早いうちから密度の濃い人生にしていきたいな、と今朝夢から覚めて瞼を閉めたままの状態で考えていた。夢の内容は覚えていないけど、きっとそれに準じた内容の夢を見たのだろう。近頃夢の中でも仕事をしていたり、将来のことを考えたり、現実が夢の世界に浸食している。わたあめの雲に乗るだとか剣と魔法で竜を倒すとかこの歳になってまでそんなファンタジーは求めていないけど、夢と現実はきっちり分かれていて欲しくて、そういうリアリティのある夢の最中で「夢の中なのに何をやっているんだ」と我に返って目が覚めることは先月くらいから何度もあった。夢にも出るのだから自分の自覚・無自覚にかかわらず潜在的にそういうことに対するストレスが心中にあるのだろう。夢で啓示を受けるどこぞの偉人のように、夢見の原因を整理して現実で解消してしまえば、そんな夢は見なくなるのだろうか。多分そうだ。前にも書いたけど、つくづくこの日記を書くという行為は自分にとっての自問自答の作業で、解決策を自力で導く為の整理の仕方になっている。これを小さな頃から続けているせいで、多分物事の処理の仕方や考え方がガラパゴス化しているのだと思う。ところで、「写真がうまい人は文章もうまい」という根拠の所在がわからない噂を小耳に挟んだのだけど、巧拙はさておき、それはどうなんだろう。写真を撮る”目”は何で培われるのだろう。いつか要素を掴んだらまた自分に問いかけてみよう。

2016.05.29

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京都に行ったことについて長い長い文章を書いていたんですが、日を幾日か跨ぐと熱が冷めるのはどんなことでも同じで、今はそれら全てを削除してまた新しく文字を紡いでいます。思い出を辿るのにモノに頼ったことがないな、と部屋の隅で埃を被っていた中学生の頃の修学旅行のしおりとか学内の広報誌を次々とゴミ袋に詰めながら思いついた。思い出となる当時の感情や出来事の衝撃は何年経っても強く心に彫り込まれていて、その溝を指でなぞれば当時の映像や音声が脳裏に浮かんでくる。形あるもの、例えばライブで大好きなアーティストがピックを客席に放り投げ、それを運良くキャッチできたとして、きっと心に残るのはピック自体を手にした喜びよりも、投げてよこしたアーティストの身振り、ピックを掴んだ汗ばんだ自分の手、ステージの熱気、隣り合った人のぶつかった肩の温度、そういうもの。ピック自体はもちろん目に見える形での思い出だけど、一度心に刻まれれば物体がなくたって何度も思い出せる。記憶と思い出に違いがあるとすれば、忘れるか忘れないか、という所だろう。記憶は薄れるものだけど、思い出は不思議と心から離れない。長い人生の中、今お金をかけて得ている小さな空間のことを思えば、身の回りに置けるものの数や大きさには限りがあることは自明であり、人生の終わりまで連れ添うものの限りも僅かであることもまた明白である。この考えの果てが物品に頓着しなくなった生活だとか、解脱という境地であったりするのだろう。心の容量には底があるのだろうか、それともないのだろうか。以上、段ボールひとつ分の思い出の品々を思い切って捨てて、部屋を片付けた話。

2016.05.18

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4月の時の流れるスピードの遅さはガチ、という話と最近忙しいながらも写真を撮る機会に恵まれててやったね!という話をしたかった。まず前者から。ご覧のように、ブログの更新がすっかり落ち着いてしまっている。前職の頃のように勤務中にも日記が書けちゃうような環境ではなくなった為、それに伴いまとまった文を綴る時間も少なくなってきている。文にするべく思考していたものはその時々で途切れて、ウサギの糞のようにぽつぽつと落とされる。それをまとめ上げる思考を働かせる頃にはもうその時とは別の感情が脳を占めるので、結果として日記という体裁を保つに至らないということだ。そんな事は常日頃考えているのだが、とにかく4月は流れる時間が遅かった。新しい環境、人との出会い、それらに順応しようとすると精神的に1日が長く感じて、それに併せて1カ月が長く感じてしまう、ということだろうか。多分そうか。分刻みのスケジュールで1日を過ごす時に1日が長く感じるのも、こなした行動の数よりも時間や出来事に気を配ることが増えたことに原因がある気がする。待ち時間や暇な時に時間が早く過ぎないかと時計を何度も見ては時間の経過の遅さに苛立つあの感じ。なるほど、ここまで書いて自己完結したけれど、時間の経過と精神は、前者は物理的な現象だとしても感覚的には影響し合うものなのかもしれない。ここまで考えてそれっぽく論じることに飽きてきたので話題変えます。写真について。この前、小雨の中を見知らぬ山道に分け入って写真を撮ってきました。満足。僕の好きな(正確には「対象物を自分の好む色合いや質感で写そうとした結果」)「暗くてじめじめしたもの」が多く撮れました。カメラの個性に撮れる写真の色味が影響されたりするのは当たり前だけど、やはりどんな設定にして、どんな切り取り方をして、どんな見せ方をするのかは撮る人間の個性によるものなのだなと当たり前のことを思う。他人が撮る写真を見て、尚更強く意識する。自分がなぜそういう暗さや湿気を、見せ方を好むのか、その根源により深く潜っていけたらもっと作品は進化するのかもしれない。答えを見つけるには深過ぎる距離かもしれないけれど、長い時間をかけて探してみようと思います。

2016.05.16

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PS4を格安に買うには3日間ある期間のうち朝9時に店頭に並びジャンケン大会に勝利しないと購入出来ないという条件があったので諦めました。環境が変わればつるむ人間の顔は当然変わっていく訳で、最近は馴染みのバーに通わない代わりに大学の後輩とより仲良くなったり、職場の人と休日を共にしたり、地元に残った友人たちと顔を合わせたりしている。写真も相変わらず撮れている。今はダイエットメニューを組んでまで取り組んでいる減量計画と、1週間前から様子のおかしい喉の痛みが気になるところ。昼にOL顔負けのサラダランチを決めこんで炭水化物をそこそこ摂らないように心がけるだけの、要は食事に気をつかうだけのダイエットなんだけど、とりあえず1週間続けたら1.5キロ痩せた。好きなものを好きなだけ食べることも快楽だけど、身を絞り成果を出すことも快楽だなと思う。そんなことを言ってたら仕事終わりに大量に肉を食べるイベントが2件も重なって、0.8キロほど戻ったので人間の体なんて!と思っているところ。多分食事以前に運動が足りてないんだと思う。ダイエットの話おわり。

上記までの文章を前の日記から何日もかけてぽつぽつと書いては消して、しばらく時間が空いて今再び筆を取っている。今は京都に向かうバスの中。僕一人で興奮しているのも落ち着かないので、京都について日記を書こうと思ったわけだ。そもそもの経緯を話すと長くなるけど、まとめると①ゴールデンウィーク分の休みが明日から3日間取れる 、②京都には憧れがあるが一度も行ったことがなく、京都どころか関西自体初めてである ③いつもなら東京にでも遊びに行くところだけどそろそろ一人で過ごす東京も飽きてきた、ということだ。昨年は一人で福島の洞窟に飛び込んだり、一昨年は宮城の離島にフェリーで乗り込んだりしているので、今年はより足を伸ばしてみた。京都へはいつか行ってみたかったので、今回たまたまその日が来た、といった感じ。地理は今だに頭に入っていないし観光地は多過ぎてどこに行ったらいいのか選べない、知り合いはいない、京都の教養は鴨川ホルモーくるりの歌ぐらいでしか学んでないという有様だが、この状態の僕がカメラ片手に何を見つけ、身につけて、撮って帰ってくるのか、僕自身が楽しみである。だから、みんなはブレスユーとグッドラックを祈ってて下さい。健康なまま、なんか持って帰れますように。

2016.05.03

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桜が散る頃、地元ではさくらんぼの木が花をつけるのでそれが咲き誇る様を見るのが楽しみなんだという話をもう少し前にしたかったんだけど、今朝車で走り抜けた近所のさくらんぼ畑は白い花よりも緑の色が多かった気がする。世は長期休暇だというのに風が強かったり雨が冷たかったりで、濡れた花びらが路面をまだらに染めていたのはそれはそれで美しいなと思った。仕事の話ばかりするのはつまらないなと思うのであまりしないようにしようかな、と思っていた矢先、二日連続で夢の中でも仕事をしていたので脳みその綺麗な部分に新しい皺がザクザク刻まれているようだ。仕事に限らず、新しいことを覚えていくのは脳にいい、と頭の中の脳科学者が言ってる。その刺激に影響されているのだろう。とはいえ仕事は仕事だし、オンとオフは分けたいから毎度苛立ちながら起床するのは精神衛生によくないと心の中の僕が言ってる。両者の仲を取りもちたい僕はその後10分ちょっとの二度寝をして夢を塗り潰す。布団の上に絡み合う3種類の毛布に身を包む。昔、国語の教科書でラッコが昆布やら海藻やらに身を括り付けて眠る様子を読んだような覚えがあり、それを思い出す。とりあえずこれからやることはPS4を格安に手に入れることと、衣替えをすることと、部屋にのさばる衣類達を片付けることです。減量計画に関しては、二日間食事に気をつけて(炭水化物を減らす、間食しない)いたら1キロ痩せたので今のところ順調です。